Be A Success For God

「こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。」 (コロサイ3:1-2)

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Ever-increasing Greatness

「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように。」(詩編71:21)

主は、創世記22章17ー18節でアブラハムに言われました。「わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる...」。まさに主はアブラハムを祝福し、彼を偉大にしてくださいました。その祝福は、アブラハムの後の様々な世代にわたって見ることができます。イサク、ヤコブ、ダビデ、ソロモンはみな、この現実の中を歩みました。

偉大な王であったダビデは、さらに高い次元の偉大さを経験しました。ダビデは偉大さにもレベルがあることを知っていたため、彼は「あなたが私の偉大さを増し、ふり向いて私を慰めてくださいますように」と祈りました(詩篇71:21)。偉大な人になるには、生まれながら偉大な人になるか、それとも偉大さが与えられて偉大な人になるか、偉大さを成就する人になるのか3つの方法があります。

しかし、神に感謝します。あなたは新しく生まれたとき、偉大に生まれました。あなたはこの素晴らしい神の家族に生まれ、全能の神とその王国につながりました。全能の神と神の御国につながる、すべての豊かさと富を受け継ぐ者として生まれたのです。この現実を歩むためには、まず最初に、あなたの感覚を超えて生きなければなりません。目に見えるものだけがすべてではありません。あなたの目に見えるもの、感じるもの以上のものが人生にはあるのです。聖書には「確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます」(第二コリント5:7)とあります。

次に、あなたは偉大さに関して神と一致し、同じことを言わなければなりません。詩篇の作者のように、御言葉に従って告白し、あなたの偉大さを語りましょう。あなたの増加は、終わりがないことを信仰によって宣言してください。主があなたの偉大さを大きく増してくださっていることを宣言しましょう。

あなたがどんな仕事をしているかに関わらず、あなたの中には偉大さがあり、その働きを偉大にしてください。あなたは王族なのです。ハレルヤ!

祈り
私はアブラハムの子孫であります。私は偉大であり、私の偉大さは増して終わりがありません。主は私を大きくし、私がより偉大になり、前に進み、飛躍的に前進するように導かれます。私の偉大さは無限であり、繁栄と豊かさのための大きな恵みが私に向けられています。ハレルヤ。

参照聖書
(詩編112:1-3) ハレルヤ。幸いなことよ。主を恐れ、その仰せを大いに喜ぶ人は。その人の子孫は地上で力ある者となり、直ぐな人たちの世代は祝福されよう。繁栄と富とはその家にあり、彼の義は永遠に堅く立つ。

(詩編18:35) こうしてあなたは、御救いの盾を私に下さいました。あなたの右の手は私をささえ、あなたの謙遜は、私を大きくされます。

(創世記26:12-14)イサクはその地に種を蒔き、その年に百倍の収穫を見た。主が彼を祝福してくださったのである。こうして、この人は富み、ますます栄えて、非常に裕福になった。彼が羊の群れや、牛の群れ、それに多くのしもべたちを持つようになったので、ペリシテ人は彼をねたんだ。

(ガラテヤ3:29)もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。
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His Unfathomable Love

「…彼女は『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」(マルコ5:27-29)

今日の御言葉は、奇跡のために、イエスに触れようとする、群衆を乗り越えて進んでいた長血を患う女性の感動的な物語です。

モーセの律法では、長血を患っている女性は汚れた人と思い、人と接触することはおろか、人前に出ることさえもできませんでした。しかし、愛と恵みに満ちたイエスは、この女性に次のように愛情を込めた言葉をかけられました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)

この女性に対する主イエスの恵みある性質について考えてみましょう。主の愛は人間の理解を超えたものであり、偽りのない神性の愛です。また、当時、主がらい病を患った者を、どのように癒したかを考えてみましょう。ルカ5章には、らい病を患った者に触れて癒されたという、イエスの美しい物語が記されています。「イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます』イエスは手を伸ばして、彼にさわり、『わたしの心だ。きよくなれ』と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた…」(ルカ5:12-14)

主イエスは、感染した人と接触したにもかかわらず、感染されませんでした。むしろ主は感染された人を治してくださったのです!そのような主をあなたは見習うべきなのです。私たちは、「ウイルス」や「感染症」から隠れるようにアドバイスする人ではなく、私たちに癒しの力を与えてくださったイエスを見習うべきなのです。

ルカの福音書10章19節で、イエスは「確かに、わたしは、あなたがたに、蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けたのです。だから、あなたがたに害を加えるものは何一つありません」と語られました。私はイエスにインスピレーションされました。あなたもそうなるべきです。主の愛にインスピレーションされてください。主がどのように当時の最も低い者たちに愛情を持って触れられたか、インスピレーションされてください。主は今日も私たちを通しておなじように行われます。ハレルヤ!

祈り
愛する父よ、私の中に豊かに表され、私を通して示された主の愛の本質に感謝します。私は愛のオアシスなので、今日、病んでいる人、疲れている人、重荷を負っている人に、主の愛と神の臨在を現します。私は悩んでいる人たちに安らぎ、安息、リフレッシュ、フィリング、祝福を流し送れる人です。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(ヨハネ15:13)人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

(第一ヨハネ4:10-11) 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
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