2024年4月21日(日)
私達の手を上げる
The Lifting Of Our Hands
「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように。」(詩編141:2)
聖書には、手を上げることの重要性と祝福について、多くの記述があります。詩篇134篇1節から2節には、「さあ、主をほめたたえよ。…聖所に向かってあなたがたの手を上げ、主をほめたたえよ。」とあります。私たちが手を上げるとき、祝福が解き放たれ、神聖の力が私たちの手を通して流れるのです。
ある集会で、関節炎を患っている人が大勢いました。私は主に尋ねました。「なぜあの場には関節炎の人が多いのでしょうか?」
主の答えはとても興味深いものでした。「わたしの御言葉で、手を上げて礼拝しなさいと語ってある。礼拝の中で手を上げるなら、そのような関節炎から遠ざかるのです。」しかし悲しいことに、多くの人はこのことを知りません。
もしその人たちが、聖書に書かれているように、手を上げて祈り、礼拝し、賛美していたなら、関節炎になることはなかったでしょう。 手を上げるように、神が私たちに言われることは、私たちのためであり、私たちの祝福のためです。祈りや礼拝の時には、しばしば手を上げましょう。
主に向かって手を上げることは、あなたの人生における主の恵みと栄光を認めるしるしなのです。青銅の祭壇に捧げられた夕べのいけにえの象徴は、私たちの手を上げることに反映されているのです。ですから、あなたが礼拝のために手を上げることは、旧約聖書における青銅の祭壇に捧げられた雄牛やヤギよりも神をもっと喜ばせるのです。
ダビデは、古い幕屋の祭司職をよく知っていました。また、彼は神の預言者であり、御霊によって新しい契約の啓示を受け、今日の私たちの手を上げることが旧約聖書における全焼のいけにえの代わりとなったことを見たのです。
第一テモテへ2章8節に、こう書いています。「ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。」使徒パウロはここで、愛と感謝に満ちた喜びの心から、御父に捧げる霊的な礼拝と賛美を指しています。
今も手を上げて、主の愛と憐れみと優しさのゆえに主を礼拝しましょう。あなたがどれほど主を愛しているかを主に伝えましょう。
祈り
聖なる父よ、私は手を上げて主を礼拝し、主の威光を賛美します。主だけが唯一の神であり、すべての誉れにふさわしい方です。主のような方は他にいません。主は偉大で全能の方です。すべての世々に渡り、忠実で、正しく、義で、聖く、純粋で、真実です。主よ、愛しています!イエスの御名によって祈ります。
参照聖書
(1列王記8:22-23)ソロモンはイスラエルの全集団の前で、主の祭壇の前に立ち、両手を天に差し伸べて、23 言った。「イスラエルの神、主。上は天、下は地にも、あなたのような神はほかにありません。あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と愛とを守られる方です。
(哀歌3:41)私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。
(詩編63:4)それゆえ私は生きているかぎり、あなたをほめたたえ、あなたの御名により、両手を上げて祈ります。
(ルカ24:50)それから、イエスは、彼らをベタニヤまで連れて行き、手を上げて祝福された。