Bold In His Presence

「 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:16)

ルカ18:9-14で、主イエスは、神に謙遜に憐れみを求める徴税人とは逆に、自分の美徳と「宗教」にとらわれたパリサイ人にたとえで言われました。そのパリサイ人は、自分の義を誇りにして言いました、「…神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。…」

一方で、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言いました、「主よ。こんな罪人である私を憐れんでください。」 主の言葉では、義とされた者は徴税人であり、パリサイ人は、彼の高慢のために罪に定められたと言いました。しかし、イエスはこれを誰に教えましたか?ユダヤ人でした。主はユダヤ人に自分の義を信頼しないように教えられました。主はユダヤ人に祈りの中での謙虚さを教えられました。

今日も、このたとえを言及し、父の御前で物乞いの態度で祈ったり、自らを非難したりするクリスチャンがいます。しかし、神はその祈りを望んでおられません。

その徴税人は旧約の下に住んでいたので、そのように祈ったのです。イエスはまだ救いの働きを成し遂げる前であるからです。しかし今はイエスがすべてを成し遂げたので私たちは天の御父の前に大胆かつ確信を持っています。私たちを代わってイエスの贖い犠牲は、私たちに義を与えました。ですから、私たちは愛に満ちて主の前に大胆で恥ずべきことはありません。

ですから、「主よ、私は求めている祝福にふさわしくありませんが、どうぞ、私を憐れんでください!」と祈ってはいけません。そのように祈らないでください!神はすでにあなたを憐れみ、キリスト・イエスにあって天にあるすべての霊的な祝福をもってあなたを祝福されました(エペソ1:3)。これらの祝福の一つは義であり、義はあなたに罪、恐怖、非難、劣等感なしに神の前に立つ能力を与えます。あなたは直接、神と話ができ、愛をもって神と交わりを持つことができます。ハレルヤ!

主イエスは、私たちにとって義となられたので、恐れなく神の御前に立つ私たちの力です(1コリント1:30)。イエスは私たちに、神の御前で大胆になる権利を与えました。ですから、神の臨在の中に立つ資格がない人のように祈らないでください! 大胆になりましょう。

今日の本文にもう一度注目してください。それは「あわれみを求める」ではなく、「あわれみを受ける」と言っています。つまり、憐れみを「つかみ」、「取る」ということを意味します!あなたが望むものは何でも、すでに主の憐れみでそれを可能にしました。したがって、大胆に手を差し伸べてそれを取ってください!神に栄光がありますように!

告白
私はイエス・キリストの信仰によって大胆さと確信を持って神に近づくことができ権利を得ています。イエス・キリストにより私は相続を受け、神の御心に従って定められています。私は神と同じ仲間なので、環境を超えて生きています。ハレルヤ!

参照聖書
(エペソ3:11-12) 私たちの主キリスト・イエスにおいて実現された神の永遠のご計画に沿ったことです。12 私たちはこのキリストにあり、キリストを信じる信仰によって大胆に確信をもって神に近づくことができるのです。

(ローマ8:16-17) 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

(ヘブル4:16) ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。