2022年1月13日(木)
祈りによる主とのパートナー
Partners With Him Through Prayer
「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために…願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。…そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。」(第一テモテ2:1―4)
今日の御言葉にあるさまざまな種類の祈りは、あなたが他の人のために祈るべきすべての種類の祈りを扱っています。「…まず初めに、すべての人のために願い、祈り、とりなし、感謝をささげなさい…」ここで「願い」という言葉は、ギリシャ語の 「デエシス(deēsis)」から訳しており、請願や明確な要求を意味します。一般的に、請願とは法的な要求を含む正式な文書による嘆願書や理由書のことです。ですから、私たちはこれらの切ない願いを通して、福音宣教という法的根拠に基づいて要請しているのです。
次に「祈り」です。これはギリシャ語で「プロセウチー(proseuchē)」から訳されて、「祈りをささげる」という意味です。「プロシュケ」は別のギリシャ語「プロセウチョウマイ (proseuchomai)」の派生語で、「礼拝で神に祈る」という意味です。神は、私たちが賛美中の祈りを捧げ、すべての人に祝福を宣言することを望んでおられるのです。
次の祈りは「とりなし」で、これはギリシャ語の「エンテウシス(enteuxis)」で由来し、「エンチュシャノー(entugchanō)」から派生した言葉で、インタビューというような話し合いをすることを指します。ここでは、実際に話し合う相手と親しげに話し、自分の主張を伝えることができるのです。
それは、イザヤ43章25~26節に書かれているようなことです。「わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。わたしに思い出させよ。共に論じ合おう。身の潔白を明かすため、あなたのほうから述べたてよ。」主は「共に論じ合おう」と言われています。言い換えると、まるで裁判所で行われるように「一緒に論じよう」ということです。それが、あなたのとりなしときにすることで、あなたの案件を提示するのです。
最後の祈りは、ギリシャ語の「エウカリスティア (Eucharistia)」に由来する「感謝」です。あなたは、このような祈りによって、主が世界中のすべての人の人生の中で行ってくださったこと、そして今も行ってくださっていることに対して、感謝の気持ちを表します。神は、祈りによって、私たちをパートナーとして必要としています。神の願いは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。
福音に対するあなたの意識が、罪人、失われた人々、国々のための祈りととりなしに拍車をかけてください。より多くの人が救いを受け、主のために生きることができるように祈りましょう。このように継続的に祈ることを確実にしてください。
祈り
愛する父よ、キリスト・イエスにおいて示された主の愛と偉大な恵みに感謝します。主の願いは、すべての人が救われ、真理を知るようになることです。ですから、今日、失われ、虐げられている人々のために祈ります。主の働き手である私たちに送ってくださったメッセージを、彼らが聞き、受け取り、彼らの理解の目が開き、真理を認識することができますように願います。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(第一テモテ2:1-4 AMPC)そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
(ピリピ4:6-7)何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
(使徒1:14)この人たちは、婦人たちやイエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟たちとともに、みな心を合わせ、祈りに専念していた。