2025年5月27日(火)
御言葉と行動
Words And Action

「なぜなら、私たちの福音があなたがたに伝えられたのは、ことばだけによったのではなく、力と聖霊と強い確信とによったからです。…」(1テサロニケ1:5)

私たちは言葉の重要性と力について教えていますが、言葉と行動は一体であることをご存知でしょうか?例えば、特に神への賛美と礼拝において、私たちの献身を十分に表現するには、言葉だけでは十分ではありません。

聖書の多くの場面で、神は言葉と行動が一緒に行く優先順位を私たちに教えておられます。たとえば、創世記2章7節には、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。」とあります。主は人間を創造する際に言葉だけを用いられたのではありません。

また、使徒ヨハネは、愛のうちに歩むことについての戒めの中で、単に言葉だけでなく、行動を通して愛を示すことの重要性を強調しています。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。」(1ヨハネ3:18)聖書は、言葉を補う行動の必要性を強調しています。主への感謝を表明する際にも、私たちは主への感謝と賛美を口にしますが、礼拝と感謝の証しとして、主に捧げ物を持っていくことが求められています。

つまり、私たちの礼拝と信仰を完全なものとするためには、私たちの行いが私たちの言葉に伴わなければならないのです。1テサロニケ1章5節を読むと、テサロニケのクリスチャンたちに福音が伝えられたのは言葉だけでなく、力と聖霊によるものであったことがわかります。私たちの宣教には聖霊の力が伴わなければならないのです。

同様に、ヤコブ1章21節から25節では、祝福されるのは御言葉を実行する者であって、単に聞く者ではないことが示されています。 マタイ15章8節から9節では、主は礼拝が単なる言葉のみで構成されている人々に対して語られ、そのような礼拝には真の賛美に伴うべき誠意が欠けていることを示されています。「『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

言葉だけでは、それに対応する行動がなければ、主への献身を表すには不十分なのです。また、聖書が行いのない信仰、あるいはそれに対応する行いのない信仰について言っていることを思い起こさせます。「たましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行いのない信仰は、死んでいるのです。」(ヤコブ2:26)

祈り
愛する父よ、私はあなたの御言葉に沿って生き、私の言葉と行動、供え物とさまざまな捧げ物を通して、愛と感謝と礼拝を表します。霊とまことをもってあなたを礼拝するために、聖霊によって力を与えられ、あなたを心から敬います。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(1 テサロニケ 1:5 NIV)それは、私たちが伝えた福音(イエス・キリストによる救いの知らせ)を聞き流さず、非常な関心をもって迎え入れた態度から明らかです。私たちが語った教えは、あなたがたの人生に重大な影響を与えました。聖霊によって、これこそ真理だという確信があなたがたに与えられたからです。また、私たちの生活そのものも、私たちが語ったことばの正しさを実証したと言えるでしょう。

(ヤコブ1:21-25)ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。みことばを聞いても行なわない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。ところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行ないによって祝福されます。

(1 ヨハネ3:18 AMPC)子どもたちよ。私たちは、[単に]ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実(実行と誠実さ)をもって愛そうではありませんか。