2025年9月8日(月)
律法によってではなく、信仰によって
By Faith, Not By The Law

「キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」(ガラテヤ3:13-14)

私たちの冒頭の聖書箇所にある「律法の呪いからの贖い」は、異邦人ではなく、ユダヤ人に対して与えられたものでした。さらに、それは救いの最終目的ではなく、より大きなもの、即ちアブラハムの祝福と信仰による聖霊の約束への入り口なのです。律法は人間を義とすることはできず、永遠の命を与えることもできませんでした。ただキリストへの信仰だけが、成し遂げることができたのです。

パウロは、キリストが十字架で呪いとなったのは、ユダヤ人が律法の呪いから解放されるためだと明かしています。しかし、それだけではありません。イエスは、アブラハムの祝福、すなわち義とされ、恵み、相続、そして聖霊が異邦人に与えられるために、そうされました。律法は条件に基づいて機能し、従順を基盤としていました。

例えば、出エジプト記19章5節で、神は言われました。「…今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。…」しかし、アブラハムの祝福は信仰によって働きます。それは行いによって資格を得るのではなく、信仰によって受け取るものです。聖書がアブラハムが神を信じたため、それが彼に義と認められたと述べているのと同じです。(ローマ4:3)

今、イエスを信じる私たちは、信仰によって義とされ、同じ祝福に与える者となっています。その祝福には、私たちのうちに住む神の御霊が含まれます。御霊は、私たちを導き、力づけ、内側から変革する霊です。これが新約聖書で信仰がなぜこれほど重要なのか、その理由です。ローマ1章17節にはこうあります。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。」ヘブル11章6節には、「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。」とあります。

信仰がなければ、祝福を受けたり、相続を享受したりすることはできません。信仰は、キリストにおいて神があなたに与えてくださったすべての鍵です。ですから、信仰によって生きてください! 信仰を語り、信仰で応答しましょう。信仰は私たちの天の王国の通貨です。信仰は私たちの生き方です。ガラテヤ3章11節から12節にこうあります。「ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。しかし律法は、「信仰による」のではありません。…」新しい契約の祝福は、信仰によってあなたのものです。

祈り
愛する父よ、私を神の御子の輝いた自由へと導いてくださったことを感謝します。私はアブラハムの祝福の中を歩み、信仰に満ち、聖霊に導かれています。私の生涯は、神の恵み、好意、義の表現です。キリストが私に与えてくださったすべてを享受します。私は人生のあらゆる領域で繁栄し、喜びと力を持って神聖な目的を成就します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ガラテヤ2:16) しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

(ガラテヤ3:9-14) そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる。」のだからです。しかし律法は、「信仰による。」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる。」のです。キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

(ローマ4:13-16) というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。