2024年1月14日(日)
再臨は聖徒たちのためではない
The Second Coming Is Not For The Saints

「…そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現れるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。」(2テサロニケ1:7-8)

携挙とキリストの再臨の区別は、多くの人々にとって混乱の元となってきました。しかし、聖書はこの2つの異なる出来事を明確に説明しています。

第一に、キリストの再臨は、クリスチャンを対象としていません。教会の携挙は、クリスチャンを対象としており、それは再臨の前に起こるものです。

キリストの再臨とき、私たちはキリストと共に来ますが、再臨は主に裁きの時です。それは主の怒りの日、主の裁きの日と呼ばれています(2テサロニケ1:7)。この裁きは、主の千年王国(千年間の平和)が築く前に行われるものです。マタイ24章29節で、イエスご自身がこのことについて言われています。「だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、…」これは、キリストの再臨が大艱難の後に起こることを示しています。

マタイの24章30節はこう言っています。「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」彼らは主の再臨について期待も、信じもしなかったので嘆き悲しみます。

しかし、2テサロニケ1章10節にこう書かれていることに注目してください。この裁きが起こる、「その日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちの中で(in)栄光を受け、信じたすべての者の―そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたのです―感嘆の的となられます。」注目してください。主がご自分の聖徒たち「によって(by)」栄光を受けるために来られるのではなく、ご自分の聖徒たち「の中で(in)」栄光を受けるために来られるのです。ここでの意味は、主が私たちのうちにあって栄光をお受けになり、私たちを見ている者たちは、私たちのうちにおられる主を礼拝するということなのです。彼らは、私たちのうちにある主の栄光に驚くのです。

これは、使徒ヨハネが1ヨハネ3章で話したことと一致します。「キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです」(1ヨハネ3:2)。主が来られるとき、私たちは主とともに来て、主と同じような姿になるのです。人々は主の栄光を私たちのうちから見のです。そして、それに驚くのです。ハレルヤ!

祈り
愛する父よ、あなたの御霊と御言葉によって、私は教会の携挙に備え、日々、主のために生きています。私は愛のうちに歩み、私の信仰は活性化され、主が現れるときに主に会うために挙げられるのです。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(1コリント15:52)終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

(1テサロニケ5:9)神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。