2024年4月3日(水)
主のために生きる
Live Unto Him

「もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら、主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」(ローマ14:8)

人生において、多くの人がさまざまな心配事や人生の課題に重荷を負わされ、不満と闘っています。多くの場合、彼らの不満は、キリストのために生きることの価値と充実感を学んでいないことから生じています。主のために生きるとは、主が喜ばれることに満足と充実さを見いだすことであり、あなたの不満もまた、主を喜ばせないものに限定されているのです。

言い換えれば、あなたの不満はただ主についての不満の反映にすぎないものであり、あなたは個人的には何も受け止められず、個人的に傷つくことはしないのです。あなたが主に従って生きていると言いながらも、まだ傷や不快感や怒りを抱いているとしたら、主を喜ばせたいというあなたの願いは本物かどうか問われることになるのです。

それは、1サムエル記8章4節から7節の話を思い起こさせます。イスラエルの長老たちはラマで、預言者サムエルに近づき、他の国々のように自分たちを治める王が欲しいと願いを表明したのです。サムエルは彼らの要求を不快に思い、主に祈りました。神はそれに応え、民の声に耳を傾けるようサムエルに命じ、彼らの要求は、サムエルを拒絶することではなく、王としての神に対する拒絶であることを明らかにしました。

預言者サムエルは個人的に気分を害しましたが、神は彼を正され、サムエルのことではなく神に関することなので、サムエルに傷を負わないことについての素晴らしい教訓を教えられました。主のために生きるのは、個人的な感情を超えて、主の神聖な御心に自分自身を合わせることなのです。

告白
愛する父よ、私は主に従って生き、いつも主を喜ばせ、他の人への愛に満ち溢れることを選びます。私の喜びと満足は、主を喜ばせ、主のために生き、キリストにあって私の目的を果たすことから生まれるのです。アーメン。

参照聖書
(コロサイ3:23)何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。

(ガラテヤ1:10)いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。

(1サムエル8:4-7)そこでイスラエルの長老たちはみな集まり、ラマのサムエルのところに来て、5 彼に言った。「今や、あなたはお年を召され、あなたのご子息たちは、あなたの道を歩みません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」6 彼らが、「私たちをさばく王を与えてください。」と言ったとき、そのことばはサムエルの気に入らなかった。そこでサムエルは主に祈った。7 主はサムエルに仰せられた。「この民があなたに言うとおりに、民の声を聞き入れよ。それはあなたを退けたのではなく、彼らを治めているこのわたしを退けたのであるから。