Participators In His Body And Blood

“その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。”(Ⅱペテロ1:4)

あなたが新しく生まれ変わった時、聖餐式にあずかることはあなたの権利であるだけでなく義務でもあります。キリスト者として私たちは必ず聖餐にあずからなくてはなりません。なぜならこれはキリストのからだと血にあずかることだからです。“私たちが祝福する杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。”(Ⅰコリント10:16)

上の箇所を通して私たちは祝福の杯が実際にキリストの血にあずかることであることを悟ります。祝福の杯は私たちをキリストの血と一つにならせ、聖霊様との連合へと導きます。同じように私たちが裂くパンはキリストのからだにあずかることです。この意味は私たちがキリストのからだと血にあずかる者たちだということです。私たちはキリストの神聖にあずかる者たちです。聖書が、私たちが神様のご性質にあずかる者、すなわち神様と同じ種類の人(associate of the God-kind)だと言っていることは驚くことではありません。(Ⅱペテロ1:4)

私たちは主と一つです。その意味は主の勝利がまさに私たちの勝利であり、主の力がまさに私たちの力だということです。使徒パウロが、私たちが主の充満さの中で満ち満ちていると宣言したことは当然です。“何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。”(Ⅱコリント3:5) 言い換えれば、あなたがキリストの中にいるゆえにこれ以上あなたに不可能はないということです。あなたは果てしない勝利の人生の中へと入りました。あなたが聖餐式にあずかるたびに、いつも主と一つとなったことを意識してください。

あなたは恐らくこう聞くかもしれません。“罪を犯したキリスト者はどうでしょう?その人も聖餐式にあずかることができますか?”明らかにそうです。彼は罪をすぐに悔い改め聖餐式にあずかる機会を逃してはいけません。なぜならイエス様がその人の罪を取り除くために血を流されたからです。神様が求められることはただ誰もふさわしくない態度(an unworthy manner)で聖餐式にあずかってはいけないということです。神様は“罪を犯した時は聖餐をしてはいけない”と言われませんでした。神様はこう言われただけです。“したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。”(Ⅰコリント11:27)これの意味については次に説明します。

祈り
愛する父よ、私を新しく造られた者として、キリストの神聖なるいのちにあずかる者、分け与える者、共にする者としてくださり感謝します。私を父と一つとならせ、また私をすべての不義から聖くするため流されたイエス様の血と私にいのちと喜びと平安を与えるために裂かれたイエス様のからだに永遠に感謝します。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。

参考聖句
マタイ26:26-28 
Ⅰテサロニケ5:5

1年聖書通読
Ⅰコリント15:1-10 
箴言28章

2年聖書通読
マタイ14:32-42 民数記35章