2022年5月23日(月)
より優れた賛美の仕方
A More Excellent Way To Give Praise
「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた。」 (サムエル下6:14)
今日の御言葉で、ダビデは単に肉身で踊っているのだと考えている人たちがいます。よく、ダビデが踊ったように自分も踊りたい、と言って、思いっきり体を動かし始める人がいます。実はそうではないのです。ダビデは霊の人だったのです。神の箱がダビデの町に運び込まれた時、今日の御言葉には「ダビデは、主の前で、力の限り踊った。ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた」とあります。
下線部「ダビデは亜麻布のエポデをまとっていた」に注目してください。当時、亜麻布のエボデを身につけることは、祭司の職を表すものでした。祭司がその装束を身に着けているときは、自分の霊的な職責を果たしていたのです。ダビデもまた、御霊に導かれていたことは明らかに預言者として、亜麻布のエポドを身に着け、ヘブル語で描かれた彼の踊りは、通常の喜びを表す肉的な踊りとは全く異なっていたのです。
聖書によると、ダビデが主の前で踊ったと言うとき、踊りを意味するヘブル語は「カラ(kârar)」と言い、多くの人が思っているような、グルグル回ったりする動作を指していません。「カラ(Kârar)」とは、子供のようにスキップしたり、ジャンプしたり、回転したり、自分の軸の周りを回ることを意味します。
ダビデの踊りは、ルカ10章21節で、イエスの行動に似ています。聖書には「そのときイエスは霊的に喜び[ギリシャ語でアガリアオ(agalliao)]… 」とあります。イエスは子供のようにスキップしたり、ジャンプしたりしていたのです。したがって、ダビデが「力いっぱい」踊ったというのは、今日多くの人が踊るように、フロアで肉体的に力を発揮することを意味するのではありません。ヘブル語で「オゼ、オゼ(oze、oze)」と言いますが、これは、彼が自分のすべての栄光と威厳を尽くして踊ったという意味です。ダビデは神の装束を全部身に着けて踊ったのです。神に栄光をお返しします。
新約聖書でよく描写されている言葉は、ギリシャ語の「 アガリアオ(agalliaō)」という言葉で、内側からの踊りを意味しています。肉身で踊ることは、あなたの霊から真の賛美と礼拝を妨げて、霊的な力を散らしてしまいます。しかし、多くの人はこのことに気づいていません。
この終わりの時に、神の霊は、神に真の賛美と礼拝を捧げるより優れた方法を示しています。クリスチャンの集会で肉的な踊りをする時代は終わったのです。私たちが主を礼拝するときは、必ず、常に霊によるものでなければなりません。「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」(ピリピ3:3)。また、ヨハネ4章23―24節にはこうあります。「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
祈り
愛する主よ、礼拝の特権と、主に受け入れられる真の賛美と礼拝へと導いてくださることを感謝します。主の栄光を私の世界に伝える真の礼拝を心から捧げることができるように、私の心と感覚を整える能力を与えてくださったことを感謝します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ヨハネ4:23-24 NIV)しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(ピリピ3:3 NIV)神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。