2025年3月24日(月)
私達の内に全うされた神の義
His Righteousness Fulfilled In Us
「それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の義(要求)が全うされるためなのです。」(ローマ8:4NIV)
モーセは律法を通して神の義に対する啓示を受けました。申命記でモーセが神の義について表現した視点は深いものです。モーセが、律法がいかに非凡で独特なものであり、諸国民の間で比類のないものであるかと感嘆したのも無理はありません。「また、きょう、私があなたがたの前に与えようとしている、このみおしえのすべてのように、正しいおきてと定めとを持っている偉大な国民が、いったい、どこにあるだろう。」(申命記4:8)申命記6章25節で、モーセの心は律法の美しさに感動しています。彼は律法を、守るべき規則という重荷としてではなく、神のすばらしい義の反映として見たのです。モーセは民に、戒めを守ることが彼らの義になると告げました。「私たちの神、主が命じられたように、御前でこのすべての命令を守り行うことは、私たちの義となるのである。」
後に、申命記32章45節から47節で、モーセはこの真理をさらに強調しました。「モーセはイスラエルのすべての人々に、このことばをみな唱え終えてから、彼らに言った。「あなたがたは、私が、きょう、あなたがたを戒めるこのすべてのことばを心に納めなさい。それをあなたがたの子どもたちに命じて、このみおしえのすべてのことばを守り行わせなさい。これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちであるからだ。このことばにより、あなたがたは、ヨルダンを渡って、所有しようとしている地で、長く生きることができる。」モーセは律法を命そのものとして大切にし、それに従って行動するよう民に促したのです。
新約聖書にも同様の視点が見られます。ローマ8章3節から4節には、キリストによってこの義が成就することが記されています。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の義が全うされるためなのです。」
モーセが栄光に満ちた美しいものとみなした律法の義は、今や御霊に従って歩む私たちのうちに成就したのです。神の義は私たちを通して表されるのです。王国の使者として、私たちは神の義、平和、喜びを国々に広げていくのです。
あなたがどこへ行こうとも、あなたが到着すれば、義が届くのです。あなたがその場所に足を踏み入れるとき、平和がともにやってくるのです。あなたがそこにいるとき、喜びが現れるのです。このことが、あなたの日々の意識を形成するはずです。あなたは、あなたの世界に神の王国を広げる存在なのです。ハレルヤ!
祈り
愛する父よ、御言葉を通して主の義を明らかにし、キリストを通して私たちのうちにそれを成就してくださることを感謝します。私は御霊に従って歩み、主の言葉の命と栄光を私の世界に現すことを宣言します。主の言葉は私のいのちであり、何よりも大切なものです。私を主の義の生きた体現者としてくださることを感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(2 コリント 3:7-10)もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。
(ガラテヤ 3:24-25)こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません。
(2コリント5:21)神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。