The Power Of God And The Glory God
“ある日のこと、イエスが教えておられると、パリサイ人と律法の教師たちも、そこにすわっていた。彼らは、ガリラヤとユダヤとのすべての村々や、エルサレムから来ていた。イエスは、主の御力をもって、病気を直しておられた。”(ルカの福音書5章17節)
聖書の中でよく、神の力が神の臨在や神の栄光と同義語で使いますが、全く同じことを意味するのではありません。例えば、主がモーセに岩に命じると言われた時、神の願われたことは主の栄光が現れることでした。それにもかかわらずむしろモーセは岩を打ってしまいました。それで神の力は表されましたが、神の栄光は現わされませんでした。神はモーセを戒めました。神は「わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。」(民数記20:11−12)と言われました。
モーセが岩を打った時、神の力が現れ水は湧き上がったが、そこには神の栄光はありませんでした。モーセの不従順の行いのためでした。神は常に私たちが主の力と栄光を現わすことを願っておられます。栄光は力よりさらに大きいです。栄光は神の力だけでなく、神の恵みと義をも含んでいるからです。神の栄光は、実は、神の輝きと義の全てを含んだ用語です。神の義が神の栄光です。神はご自身の栄光の中でご自身の義を明らかにされます。
したがって、「神の力が現れるのに、神の臨在と神の栄光が現れないこともありますか?」と尋ねたら、その答えは「はい」です。なぜなら、神の力は私たちが使うように渡されたものであるからです。第一コリント人への手紙9章18節で、使徒パウロは福音の中にある自分の能力を乱用したくないと話しました。パウロは福音の内にある彼の権威を指していて、その権威は神の力の支持を受けていました。「では、私にどんな報いがあるのでしょうか。それは、福音を述べ伝えるときに報酬を求めないで与え、福音の働きによって持つ自分の権利を十分に用いないことなのです。」(Ⅱコリント9:18)ですから、誰か神の能力を間違って使うことができるが、神の光栄を誤用することはできません。それが神の能力と神の栄光の違いです。それで、神は常に私たちが神の栄光の中で歩くのを願われます。
それは、神の恵みの中で歩くのが必ず神の義の中で歩いているとは限りません。誰か神の恵みで行って、参加しながら誤った事を行うことはできるが、神はそれを喜びません。神はその様な人を叱りつけ、その人が悔い改めることを期待しておられます。神の力と主の栄光の中で歩く為には、あなたは主の恵みと同時に主の義の中でも歩かないといけません。それら全ては一緒に行きます。
祈り
祝福された御父よ、私の人生に臨んだ父の栄光と、私の中で、そして私を通して働いておられる聖霊様の力に感謝します!今日父の恵みと義の中で歩む時、益々加えられる父の栄光を経験します。イエスの御名の中で祈ります。アーメン。
参考 聖書
詩編 63章1節―2節
イザヤ書 60章1節