2024年12月22日(日)
神の視点から愛を理解する
Understand Love From God’s Perspective

「人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。」(エペソ3:19)

クリスマスになると、多くの人が愛を公言します。互いに愛し合う季節だと人々は言います。しかし、ほとんどの人は愛とは何かを知っていると思い込んでいるだけで、実際には知らないのです。多くの人が経験し、理解しているのは寛容さであって、愛ではありません。寛容とは、他者に耐える能力のことです。それは良いことですが、愛と混同してはいけません。あなたが人々を許容しているからといって、その人を愛しているわけではありません。

ユダヤ人でさえ、愛を理解するのに苦労したのです。ユダヤ人の心は複雑で、神が彼らの注意を引く方法の一つは、彼らに黄金律を与えることでした。「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」(レビ記19:18)主は彼らに言われました。「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。」しかし、人が自分自身さえ愛している自覚がないのに、どうして隣人を自分のように愛することができるのでしょうか?

これは神の愛に対する最善の定義ではなかったが、神は彼らの行動でも働きかけなければなりませんでした。それゆえ、神はユダヤ人にこう言われたのです。「自分がしてほしいように、他の人にもしなさい。」しばらくすると、彼らはこれを悪用し始めました。ある男は他人の妻を奪って、こう言うのです。「私の無礼な妻を奪っても私は気にしません。」

しかし、イエスは来られたとき、神の愛を違った形で示されました。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)イエスは神の視点から愛を示し、この愛を説いただけでなく、それを証明したのです。イエスを知らなければ、真の愛を示すことも現すこともできません。

誰かが「私は、私が嬉しくないのにあなたを喜ばせることができません」と言うなら、その人は旧約聖書を引用しているのです。しかし、イエスはそうではないと言われました。愛とは、自分を喜ばせることではなく、他人のために自分の命を捨てることなのです。自分の気持ちを犠牲にしてでも、他人を幸せにすることなのです。これ以上の愛はありません。このことを理解することで、あなたの人生とイエス・キリストへの献身、そしてイエス・キリストが命を捧げた人々へのあなたの献身は完全に変わることでしょう。

告白
御霊によって、私は神の愛の次元を理解しています。私はあらゆる知識に勝るキリストの愛に満たされています。キリストが私を愛してくださったように、私も人を愛します。私の行動は真の愛に突き動かされ、主イエスの模範に従って、喜びと憐れみをもって人に仕えます。ハレルヤ!

参照聖書
(1ヨハネ4:7-10)愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

(ローマ12:10)兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

(1コリント13:4-5NIV)愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、