Don’t Worry About Titles

「そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、」(エペソ4:11-12)

今日の御言葉をみると、これらの職分について、人々を任命したり召したりする方は、神であることは明らかです。自分を見つめて「私はどんな贈物を持っているか」と思いながら、自ら特定の奉仕の業を決めないでください。それだけではうまくいきません。

霊的な青年として成長していくと、自分にはミニストリーとして立てられていると思っていた人たちがいました。彼らは自分たちの間で、ある人は預言者に、ある人は使徒として呼ばれて、それぞれ奉仕の働きを分け与えています。しかし、それらの人の幾人は、今日、もはやクリスチャンではない人もいます。彼らは数年前に信仰から離れました。

彼らが理解する必要があるのは、この務めについての成長が必要であるということでした。使徒として召されたパウロでさえ、使徒として始まりませんでした。聖書は、アンテオケの教会には特定の預言者や教師がおり、パウロ(サウルと呼ばれた者)も彼らの内に一人であったと言っています(使徒13:1)。パウロは使徒職に召されたにもかかわらず、その頃にはまだ使徒と呼ばれていませんでした。

召しには、さまざまなレベルがあって、あなたの生き方の特定のレベルで召しが形成されています。しかし、主からあなたに望まれるより、先に行かないでください。聖書は、「まただれでも、名誉は自分で得るのではなく、…」と言っています(ヘブル5:4)。自分で名誉の者だと思わないでください。あなたの好む職分として、人々があなたを呼ばないからといって、それは何の問題でしょうか? ただすべきことをした方が良いと思いませんか。もし人々があなたをその役職名で呼んでいても、あなたがその働きを十分にできなかったら、それはさらに良くないことでしょう。

あなたがふさわしくないのに尊敬されるのは正しくありません。そのようなことが、あなたを妨げないようにしてください。神にとって重要なのは、他の人から呼ばれる職分ではなく、あなたの心の状態です。偉大さはあなたの職分や人から受ける認定ではありません。偉大さは神と一緒にいるあなたの性格の質にあります。

祈り
愛する主よ、主から愛され、召された機会をくださり感謝します。私は福音を伝えて魂の救いのための主の御志と、ビジョンに動機付けられます。福音の中で私の召しを完全に果たします。私は喜んで福音の光をもって暗闇の中で生きている人々に手を差し伸べる大きな使命を引き受けます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(1ペテロ5:6) ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。

(マタイ20:26-28) あなたがたの間では、そうではありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。27 あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、あなたがたのしもべになりなさい。28 人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためであるのと同じです。」

(ヘブル5:4) まただれでも、この名誉は自分で得るのではなく、アロンのように神に召されて受けるのです。