2022年5月18日(水)
神の望むものを与えよう
Let’s Give Him What He Wants

「 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」(ローマ12:2 )

私はクリスチャンになった当初から、神が何を望んでおられるのか、何を考えておられるのかを知りたいと思っていました。私は、神に正しく仕えるために、すべてのことについて神の完全なる御心を知りたかったのです。私は、ある方向に進んだり、何かをしたりしているうちに、それが主の望んでおられることではないと、わかったりするのを避けたかったです。

そうして、しばしば主は私を聖書に導かれました。しかし、主はそれ以上のことをされたのです。主は私の心を見抜かれたので、私に特別な方法で理解させてくださったのです。これは何事に関しても、主が何を望んでおられるのか、主の心を知る方法の一つです。

ですから、主に仕えるということは、主について、主が何を望まれているか、どう望んでおられるかということなのです。それは私たちの感情や衝動や感覚的な知識ではありません。例えば、神を賛美し、礼拝するとき、神が喜ばない方法で行ってはいけません。教会での賛美と礼拝は神にとってとても大切なことで、私たちは神の言葉に従って定められた順序で行われるべきです。

手拍子は神を賛美し、礼拝する方法だと信じている人がいますが、そうではありません。拍手は喝采であって、神を喝采するのではありません。これらは、私たちが過去にしてしまったことで、神が私たちに正すことを望んでおられることです。神は主の再臨のために主の教会を完成させておられるのです。私たちは神のために拍手するのではありません。あなたは「しかし詩篇47章1節には『すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ』とあるのではないですか」と言うかもしれません。

それは旧約聖書の人たちのために書かれたもので、私たちが行うためのものではありませんでした。旧約聖書における人たちは、ほとんど肉のまま行なっているからです。旧約聖書に登場する人たちは、ほとんど肉で行動していたため、私たちが真似するために書かれたものではありません。もしあなたが、新しく造られた者として、どのように神に仕え、どのように神を賛美し、礼拝すべきかを知りたければ、新約聖書の書簡を研究してください。新約で私たちに「神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです」(ピリピ3:3)と言われているのです。

主はご自身の真理によって教会を完成させようとしておられます。したがって、正しい位置で正しく差し上げ、それで正しい結果を得ることができるのです。主が望んでおられる、聖霊による真の霊的礼拝を主にささげましょう。

祈り
愛する父なる神よ、御霊の働きによって教会が完成し、私たちが主の御言葉によって生きることを重視し、主に霊と真による礼拝を捧げることができるようにくださり感謝します。主の栄光が私たちの心を満たし、真の礼拝が主の信徒たちの間で中心となることで、主の御言葉が優位になっていきます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(マタイ15:8-9 NIV)『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』」

(使徒17:30)神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、今は、どこででもすべての人に悔い改めを命じておられます。

(ヨハネ4:23)しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。