2024年11月20日(水)
神の基準は変わらない
His Standards Are Unchanging

「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)

義を正しく理解しなければ、真のクリスチャン生活を送ることは不可能です。なぜ義がそれほど重要なのでしょうか? 義を真に理解するためには、まず神を理解しなければなりません。なぜなら、世の中では一般的に義について語らないからです。人々は善と悪という観点から、正しいこと、間違ったことについて話すかもしれませんが、それは人間的な定義や道徳的基準に基づいているものです。

これらの基準は、何が正しいか間違っているかについての文化的、社会的、あるいは個人の信念によって変わる可能性があるのです。例えば、ある国では、異様ではありますが、法律で同性婚が認められているのです。そのような社会では、男性が他の男性と結婚しても問題ないと考えられているのです。しかし、他のある社会では、この行為は間違っているとみなされたり、死刑になることさえもあります。あるところでは普通とみなされ、別のところでは重大な罪とみなされるのです。しかし、 同性結婚に対する神の立場は、旧約聖書と新約聖書の両方で明確に定義されています。(参照レビ記18:22、ローマ1:26-27)

神の義の概念は異なるものです。多くの人は、多数派の意見が神の声を代弁していると誤解していますが、そうではありません。多数派が正しいか間違っているかは関係ないのです。神には神ご自身の声があり、神の基準、神の王国、神の選択があるのです。神は遣わされたイエス・キリストを通して、神の御心を表明されたのです。

私たちが義について語るとき、私たちは神の能力と性質について話しているのです。たとえそれが正しいという抽象的な概念であっても、正しく完全であるという神の性質について語っているのです。神の考え方は常に正しいものです。神の言葉は常に正しいのです。神がなさることは、神であるがゆえに常に正しいです。それは神であるかということです。ですから、神のすべて、すなわち神の考え、神の言葉、神の行動は常に正しいのです。これが、私たちが「正しさの性質」、「神の義」という呼ぶものです。

従って、義を理解することは、神が誰であるかを理解することなのです。つまり、神の基準は不変であり、人間の意見や社会の規範に左右されるものではないことを認識することです。

祈り
義なる父よ、私の思考、言葉、行動を神の変わることのない基準に合わせ、この曲がった、頑固な世にあって、神の義として生き、光のように輝きます。私は神の義を明らかにするものです。私は義の実を結ぶために植えられた義の木です。私の人生は、神の恵みの反映であり、神のいつくしみの証です。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(2コリント5:21AMPC)神は私達の為に罪を知らなかったキリストを、事実上罪あるものとされました。それは、こうして私達がキリストにあって[よって]神の義[私達が当然そうあらねばならない状態、神の恵みによって、神に良しとされ、受け入れられ、神との正しい関係にあること]となる[神の義を供給される、神の義の中にあるものとして、またその実例として見られる]ためです。

(ローマ1:16—17) 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

(ローマ1:26-32)こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行なうようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。32 彼らは、そのようなことを行なえば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行なっているだけでなく、それを行なう者に心から同意しているのです。

(ピリピ3:9)キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです