2024年4月8日(月)
神に受け入れられる礼拝
Acceptable Worship
「それゆえ、揺らぐことのない王国をいただいたことに感謝し、敬虔と畏敬の念をもって、神に受け入れられる礼拝をささげようではありませんか。」(へブル12:28RSV)
冒頭の聖句が、敬虔と畏敬の念をもって、神に受け入れられる礼拝を捧げるようにと語っていることに注目してください。「神に受け入れられる礼拝」とはどういう意味でしょうか?それは、御言葉に従った礼拝であり、それが、神が受け入れる礼拝です。
礼拝中に「いい気分」になったからといって、それが受け入れられる礼拝とは限らないのです。長年にわたって多くの人が歌ってきた、賛美(ワーシップ)と称する歌の多くは、まったく賛美(ワーシップ)ではありませんでした。
例えば、詩篇100篇4節にある「感謝しつつ、主の門に、賛美しつつ、その大庭に、入れ。」を歌にした人たちです。ダビデ王はこの詩を作ったかもしれませんが、今日、私たちは神の御前に「入る」ことはありません。あなたが新しく生まれた日、あなたは神の臨在の中に生まれたのです。そこがあなたの住んでいる所であり、実際、あなたは神の臨在を自分の中に、そしてあなたとともに携えているのです!
ですから、誰かが「神の臨在に入りましょう」と言うと、私は「あなたはどこから来るの?」と尋ねるのです。これらの区別は微妙に思えるかもしれないが、単なる意味論からはほど遠いことです。真の礼拝とは、感情や歌、踊り、メロディアスな曲調のことではなく、御言葉に従ったものでなければなりません。
主イエスは言われました。「しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」(ヨハネ4:23)「でも、私は純粋な良心をもって礼拝しているのです。」と言う人がいます。危ないことは、純粋な良心と受け入れられる礼拝を混同することです。
あなたの良心は、あなたが持っている知識に基づいてあなたを導きます。もしあなたの理解が限られているなら、あなたの良心もまた限られているのです。したがって、これではガイドとしては不十分です。人間の霊の声としての良心は、主に受け入れられる礼拝をささげることができるように、御言葉の知識と理解を通じて訓練される必要があるのです。
祈り
愛する父よ、主に受け入れられる礼拝をささげる祝福と特権を感謝します。主よ、偉大さ、力、栄光は永遠に主のものです。主はすべての上に頭として高く上げられており、私は今日、霊とまことをもって主を礼拝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ヨハネ4:23-24)しかし真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(詩編29:2)御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。
(ピリピ3:3)神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。