2022年3月10日(木)
死に至ることはない
Not Subject To Death
「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。」(第一コリント15:51)
長い間、多くの人に、ヘブル9章27節は誤解されてきました。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように」(ヘブル9:27)。多くの人は、この節を「人はいつか必ず死に、人には死ぬべき時がある」と理解しています。しかし、これは違います。誰もが死ななければならない、というのは間違いです。聖書には「人はみな死ぬように定まっている」とは書いてありません。「人には死ぬように定めている」と「人には一度死ぬことが定まっている」とは違いがあります。
後者は、人が何度死ぬべきかについての議論です。 人が必ず死ぬべきに対する内容ではありません。 この節は、「人が二度以上死ぬのではないので…。」と書くこともできます。 キリストはいけにえの供え物でした。 そして、人々は二度以上死ぬようになっていなかったので、キリストは一度だけ捧げられました。 キリストの死によって、もう死は必須ではないということです。 これがその箇所の意味するところです。 人ごとに死ぬ時が決まっているという意味ではありません。
死は神からのものではありません。死は敵でありすでに敗北し、滅ぼしを待っているのです。「キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます」(第一コリント15:25-26)。「それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました」(第二テモテ1:10)。あなたは新しく生まれたとき、命と不滅、すなわち「死のない状態」の中で生まれたのです。
これで今日の御言葉にある「私たちはみなが眠ってしまうのではなく」つまり、「私たちは皆、死ぬわけではない」と言ったことを理解できたと思います。この節にはすべての人がみな死ぬわけではないということです。第一テサロニケ4章16-17節によると、イエスが再び来られたとき、キリストの中に死んだ者(すでに死んだクリスチャン)がまずよみがえると書かれています。それから「生きていて残っている私たちは、彼らと一緒に雲の中に引き上げられ…」とあります。これは、すべての人が死ななかったことを意味するのです。
あなたは死に至ることはありません。あなたがキリストを受け入れたときに、あなたの霊に永遠の命、つまり神の命である神性の本質が、あなたの霊に与えられたのです。聖書は、もしあなたが神の子を持っているならば、あなたはその命を持っていると宣言しています。しかし、あなたは必ずこの実在を知り、毎日、死ではなく、命に対する意識をもって過ごさなければなりません。神をほめたたえます。
告白
キリスト・イエスにある命の御霊の原理が、罪と死の原理から私を解放してくれたので、私は人間の本質から永遠へと移されました。私の道には、死はないのです! 私は命の道だけを歩んでいます。それが経済的、ビジネス、仕事、健康、そしてどの分野でも関係なく私には死がない人生を送っているのです。私は永遠に死の限界から解き放たれるのです。ハレルヤ!
参照聖書
(第一ヨハネ3:14) 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
(第一コリント15:51-57) 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。