No More Price To Pay
「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:7-8)
あるクリスチャンは、神から認められ、一定の祝福を得、人生の特定のレベルまで至るためには、「対価を払わなければならない」と信じていますが、そうではありません。 さらにある人は、より多くの油注ぎを経験するために、祈りと断食を通して払われる代価と考えていますが、それは正しくありません。祈りと断食は献身的な目的の行いです。
もしあなたが油注ぎのために代価を払うつもりであれば、あなたは、イエスがすでに十分に値を払ったという事実を信じていないことです。あなたの歩みで、神の栄光を現すために、これ以上の犠牲は必要ありません。
これについて考えましょう。神は、創世記12:2で、アブラハムに言われました、「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」 これは単に神の選択でした。 アブラハムは、神が彼を偉大な者として選ぶ前に、まず神を感動させるために何もしませんでした。主はアブラハムが信じる前から、彼に語りかけ、彼がそれを信じることによって義と認められたのです。
新約聖書にも、同じことが見いだせます。それは私たちの行いによるのではなく、すでにキリストが私たちのために成し遂げてくださったということです。人が誇ることのないように、聖書は人の行いについて語っていません(エペソ2:9)。コロサイ1:12(NIV)は、「また、光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を私たちに与えてくださった父なる神に、喜びをもって感謝をささげることができますように。」と言っています。
何と驚くべきことでしょう!私たち自分自身にとっては、神の相続人となり、神の性質にあずかる者の資格を得ることはできませんでした。あなたの善行や善意は、キリストにあって神聖な相続財産を受けるに、十分な資格がありません。従って、神からの認定を受けるために努力したり、奮闘したりする必要はありません。 イエスがあなたのためになされた全てのことを単純に受け入れてください。イエスは、あなたが命と敬虔に関するすべてのものを持って享受できるように代価を払われました。ですから、主の栄光の中で生きてください。ハレルヤ!
告白
私はキリストの栄光の中で生きています。私は命と敬虔に関するすべてのものを持っています。私は命を得て最大限に楽しむようにイエスが対価を払ったからです。私はキリスト・イエスにあって、私の相続である祝福の人生を生きています。神をほめたたえます!
参照聖書
(ヨハネ19:30) イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。
(ヘブル4:10) 神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
(1ペテロ1:10-11) この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。