2024年4月12日(金)
御言葉の栄光
The Glory Of The Word
「それから、モーセはシナイ山から降りて来た。モーセが山を降りて来たとき、その手に二枚のあかしの石の板を持っていた。彼は、主と話したので自分の顔のはだが光を放ったのを知らなかった。」(出エジプト記34:29)
多く人々は、聖書に書かれたように、神の言葉は「…神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。」(2テモテ3:16-17)と認識しています。また、主イエスは、ヨハネの福音書15章3節で、「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。」と強調されました。したがって、私たちは神の言葉がこれらのすべて行なっていることを知っています。神の言葉は、王国の最初の栄光だからです。冒頭の箇所で読んだように、旧約聖書のモーセの経験を思い出してください。
モーセは、シナイ山で四十日間、昼夜を 問わず神とともに過ごし、十戒を授かりました。モーセは神と交わり、山から下りてくると、その顔が神の栄光を放って、すべての人々が彼を見ることができないほどでした。
モーセには、神の言葉を注意深く受け止めることから発せられる目を見張る栄光がありました。モーセは、彼に付いた栄光を隠すために顔におおいを掛けなければならなかったのです。(出エジプト記34:29-33)これが、御言葉に対する深い熟考と思い巡らしの効果です。
モーセとイスラエルの子らが御言葉をどのように受け止めていたか、その違いを認識することは極めて重要です。イスラエル民は、神の言葉を戒めや指示と捉えていたのに対し、モーセは、神の言葉を命として受け入れたのです。(申命記32:46-47)
新しい契約では、この同じ栄光が今、私たちの内にあるのです。あなたが救いのために、神の言葉を霊の内に受けたとき、御言葉はあなたの内にとどまれるようになり、神の言葉の栄光が今あなたの霊の内にあります。その最も素晴らしい点は、今日の私たちの中にある御言葉の栄光は、モーセが持っていた栄光よりまさるものです。
2コリント3章7節から11節(全文を参照)によれば、私たちの栄光はモーセの栄光よりも優れています。「そして、かつて栄光を受けたものは、この場合、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。」
祈り
愛する父よ、御言葉の変革の力を感謝します。私が御言葉を深く考え、思い巡らせ、語るとき、私の人生における御言葉の栄光はますます強まります。私は超自然的な恵み、完全さ、美しさ、義の中を歩みます。私は絶えず栄光から栄光へと変えられていきます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(2コリント3:7-11)もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。
(詩編119:105)あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。
(コロサイ3:16)キリストのことばをあなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。