2024年10月13日(日)
律法は命を生み出すことはできなかった
The Law Couldn’t Produce Life

「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(使徒の働き13:38-39)

イエスが来られる前は、モーセの律法がありました。 律法は全世界のためでなく、イスラエルのためのものでした。

モーセの律法の下では、神に祝福されるために律法を守らなければならなかったのです。義はすべての律法に従うことによってのみ得ることができるのです。しかし、ヘブル書によれば、命を与える律法は存在せず、誰も律法を完全に守ることはできませんでした。「一方で、前の戒めは、弱く無益なために、廃止されましたが、(律法は何事も全うしなかったのです)他方で、さらにすぐれた希望が導き入れられました。私たちはこれによって神に近づくのです。」(ヘブル7:18-19)

さらに、ヘブル8章7節は言っています。「もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、後のものが必要になる余地はなかったでしょう。」それゆえ、 律法は人を自由にすることができなかったのです。ガラテヤ3章21節で、使徒パウロは、律法は命を与えることができず、義を生み出す力がなかったと語っています。 「とすると、律法は神の約束に反するのでしょうか。絶対にそんなことはありません。もしも、与えられた律法がいのちを与えることのできるものであったなら、義は確かに律法によるものだったでしょう。」(ガラテヤ3:21)

ローマ8章3節では、律法の何が欠陥であったかをさらに説明しています。「肉によって無力になったため、律法にはできなくなっていることを、神はしてくださいました。神はご自分の御子を、罪のために、罪深い肉と同じような形でお遣わしになり、肉において罪を処罰されたのです。」 神は、古い契約をより良い契約に置き換えなければなりませんでした。「しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定されました。さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。」(ヘブル8:6)

この新しい契約は、イエスが来られ、ご自身の神聖な血によって究極の犠牲を払われたときに結ばれたものです。その究極の犠牲のゆえに、イエスは私たちにご自身の義を与えてくださいました。ローマ3章21節から22節はこう宣言しています。「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」ハレルヤ! イエス・キリストによって、私たちはモーセの律法では義とされなかったすべての点において、義とされたのです。神を褒めたたえます!

祈り
愛する父よ、私の罪のために究極の代価を払ってくださり、私に義を与えてくださったイエス・キリストにおいて感謝します。私は福音の良き知らせを喜び、主のいけにえのゆえに義とされ、すべての罪から解放されたことを知っています。私は毎日この実在の中に生き、この真理を他の人々と分かち合い、神の祝福の満ち溢れる中を歩んでいきます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ローマ8:1-4)こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。

(ガラテヤ2:16)しかし、人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行いによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行いによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

(ローマ3:27-28)それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行ないの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行ないによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。