2024年12月28日(土)
キリストが成されたことを受け入れる
Accept What Christ Has Done

「この主イエスは、私達の罪の為に、裏切られて殺され、私達の義認[無罪放免]を獲得するため[私達を神の前においてすべての罪責から放免することによって私達の計算書を不足なしとするために]よみがえらせられたのです。」(ローマ4:25AMPC)

私たちが「イエスは全世界のために死なれた」と言うとき、それは一般的な表現であり、イエスが全人類のために死なれたことを示しています。つまり、その一般的な意味において、イエスは私たちの代わりに罪に定められたのです。イエスはすべての人のために裁かれたのです。しかし、あなたがイエスを信じるとき、2つの重要なことが起こります。第一に、イエスの身代わりの犠牲があなたのためであったことをあなたが受け入れ、認めることによって、あなたは永遠の命を受けることが可能になります。

永遠の命を受けるということは、あなたが新しく生まれ変わるということです。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」(2コリント5:17)あなたは、キリスト・イエスにあって新しい被造物となった今、実際の意味では、キリストのうちにあるこの新しい人の罪のために、イエスは死ななかったことを理解することが不可欠です。何故なら、あなたが新しく生まれたときに受けた新しい命は、神の命であり、その命は罪によって汚されていないからです。

キリストにある新しい人は、義と真の聖さのうちに創造されたのです。(エペソ4:24)コロサイ3章10節には、「新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」とあります。この認識は、あなたが義とされた理由を理解することにつながります。聖書は、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ4:25)と述べています。

義とされたあなたは、神との間に平和があり、キリスト・イエスにあって神の義となったのです。この真理を理解していない人たちは、義となろうとし、神を喜ばせようと「努力」し、日々闘っているのです。しかし大切なのは、イエス・キリストが成してくださったことの真理をただ受け入れ、それに従って生きることなのです。

祈り
愛する父よ、キリストにある新しい命の賜物を感謝します。私はキリストにあって新しく造られた者であり、古いものは完全に過ぎ去りました。私は自分の新しいアイデンティティーを完全に受け入れ、神が私に与えてくださった永遠の命の豊かさの中に生きています。私は義とされ、過去のいかなる葛藤からも解放され、正しく生きる力を与えられていることを宣言します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ガラテヤ 2:20-21)私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。」

(ローマ4:12-17)また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。もし律法による者が相続人であるとするなら、信仰はむなしくなり、約束は無効になってしまいます。律法は怒りを招くものであり、律法のないところには違反もありません。そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。

(2コリント5:17)だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

(ヨハネ10:10)盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。