2月10日(金)
イエスは栄光を私たちと分かち合う
He Shares His Glory With Us

「またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。それは、あなたがわたしを遣わされたことと、あなたがわたしを愛されたように彼らをも愛されたこととを、この世が知るためです。」(ヨハネ17:22-23)

「神はご自身の栄光を他の者と分かち合うことはない」と言うクリスチャンがいます。ある人は、長い間そう言ってきたので、今ではそれが霊的なことだと信じています。実際はそうではありません。彼らは、イザヤ42章8節で神が言われたことを誤解して、その御言葉を使って自分たちの立場を正当化するのです。ここで主は「わたしは主、これがわたしの名。わたしの栄光を他の者に、わたしの栄誉を刻んだ像どもに与えはしない」と言われました。

預言者イザヤの預言的働きとその表現を理解すれば、彼はほとんどの預言から同じ真理に対して2回ずつ表現したことが分かるでしょう。例えば、イザヤ42:8で、彼が「他の者」と言ったものは、またその後半に出てくる「刻んだ像」と霊的には同じ意味なのです。

イザヤ48章11節にも同じことが書かれています。「わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行なう。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない」。神の御名はどのように汚されるのでしょうか。それは、神への礼拝と偶像礼拝とが混同されるからです。主がご自身の栄光を他の者に与えないと言われたのは、偶像礼拝者には与えないことであり、人間のことではありません。

初めから常に神のご計画は、神の栄光を人と分かち合うことでした。神はそれをいつも望んでおられました。神は人を栄光で飾って造られましたが、人間が罪を犯したとき、神の栄光を受けられなくなったのです。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず」(ローマ3:23)。

人を神の栄光から奪ったのは罪でした。しかし、イエスが来られ、人を神の栄光の中に回復されたのです。「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです」(コロサイ1:27)。これが、キリスト教の啓示であり本質なのです。

私たちは神から栄光を奪おうとしているのではありません。神が私たちにご自身の栄光を与えてくださったのです。毎日の生活の中で、あなたが栄光の中にいることを神に感謝しましょう。栄光は神があなたに与えてくださったものであり、その栄光であなたを造られたのです。あなたは神の栄光です!ハレルヤ!

告白
神の栄光は、私の肉体を貫いて、私の存在として流れ込み、私のあらゆる病気、病弱、弱さを取り除きます。神の栄光は、私の家族、仕事、ビジネス、人生のすべての領域に現れています。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(イザヤ60:1)起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。

(第二コリント3:18)私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

(ローマ8:30)神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。