He’s The Lord That Crowns
「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」(黙示録6:2)
ある日、祈りの中で、私はこのような賛美歌を歌っていました。「主イエスの名前を高く賛美しよう。金の冠を持ってきて万軍の主にささげ・・・。」突然、主は私を止めて、「『万軍の主に冠を捧げる?』あなたにそれはできない。」と言われました。
私はこれについて考えはじめ、誰も主に冠をささげることはできないと気づきました。それは全世界であったとしてもできない事でした。彼らは何で主に冠をかぶらせるのでしょうか。私たちは主にささげるほどのいい冠を持ってないし、主に王位を授与する権勢も持っていません。しかも、あなたはすでにすべての権限を持つ方に冠をささげることはできません。すべての力は主のものです。
これはある聖書学者が、なぜ、黙示録6:2のような聖書の特定の部分を理解するのに難しいか、その理由を説明しています。「私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」(黙示録6:2)
今日の箇所に出てくる馬の乗り手をイエスだと思っている人がいますが、そうではありません。まず、馬に乗っていた人は弓を持っていたとあります。イエスは弓を使ったことがありません。むしろ聖書には、イエスが剣を持っていると言っています(黙示録2:12)。また、この箇所は「彼に冠を与えられ…」と書かれています。冠はイエスに与えられませんでした。イエスは王の王だからです。それゆえ、ここで「.. 勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。」と説明されている者は、イエスではなく反キリストを意味しているのです。
イエスは再臨なさる時、国々と戦うだけでしょう。その時がまさに、イエスが白い馬に乗り、義によって国々を裁かれるのです。黙示録19:11-12では、「また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、『忠実また真実』と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。」とあります。この箇所で一つの冠が主に与えられなかったことに注意してください。むしろ主は多くの冠を持ており、冠を与えています。(ヤコブ1:12と第一ペテロ5:4)
イエスが本当に誰であるかを知り、イエスをたたえるために正しい賛美を歌うことは重要です。イエスはこのようなお方です、「 ..祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。アーメン。」(第一テモテ6:15-16)
祈り
愛する父よ、私の心は霊と真をもって、主の御言葉に従って主をほめたたえるために照らし出されています。私が詩と賛美、霊的な歌で主の言葉を宣言し、私の心で主に歌う時、私は私の家、家族、ミニストリーの中に感謝の雰囲気をただよわせます。私の人生における聖霊の働きに感謝します。イエスの御名によってお祈りします、アーメン。
参照聖書
(1歴代16:8-12)主に感謝して、御名を呼び求めよ。そのみわざを国々の民の中に知らせよ。9 主に歌え。主にほめ歌を歌え。そのすべての奇しいみわざに思いを潜めよ。10 主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。11 主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。12 主が行なわれた奇しいみわざを思い起こせ。その奇蹟と御口のさばきとを。
(1ペテロ5:4)「しかし、今、立琴をひく者をここに連れて来てください。」立琴をひく者が立琴をひき鳴らすと、主の手がエリシャの上に下り、
(ヤコブ1:12)試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。