Take Your Place As An Intercessor

「私たちふたりの上に手を置く仲裁者が私たちの間にはいない。」(ヨブ9:33)

今日の本文は、人が 「仲介者」、「仲裁者」が必要とする時に、誰にもいなかったことを示しています。ヨブはとりなす者を必要としていましたが、そのような人はいませんでした。

これは、エリが、ひどい行為を起こしたエリの息子たちへの叱った言葉を思い起こさせます。「あなたが人に罪を犯すとき、どんな人が来てもあなたに仲裁することはできます。しかし、あなたが神に対して罪を犯すと、あなたのために懇願する者はいないでしょうか」(サムエル2:25を黙想)

しかし、イエスを遣わされた神に感謝します!イザヤ59:16は語っています。「 主は人のいないのを見、とりなす者のいないのに驚かれた。そこで、ご自分の御腕で救いをもたらし、ご自分の義を、ご自分のささえとされた。」 神はとりなす者がいないのをご覧になって、イエスをお遣わしになり、今日では、御父がイエスを送られたように、私たちを遣わされました。

今日、人は、無気力で望みがない状態ではありません。仲介者がいないわけではありません。私たちはまさにとりなすように召された者であるため、神の目的と完全な御心が、この地と人々の人生の中で達成されるようにする必要があります。神は私たちが、それができるように招き、私たちに力と能力と責任を与えられました。

パウロは、1テモテ2:1で、こう語っています、「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。」 また、エペソ6:18では、このように宣言もしました。「 どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい。」

私たちがとりなし祈ると、聖霊は私たちが属するものを得させて、すべての所で神の義を確立させるように、私たちと共に暗闇の勢力に立ち向かってくださいます。私たちはこの奉仕を霊によって、そして聖霊の力で果たします。私たちが仲介の役割を担うとき、主はすべての敬虔さと正直さで、私たちが静かで平和な生活を送れると語っています(2テモテ2:4)。私たちのとりなしで、私たちが属した社会は義の中に確立されます。

とりなしは常に他の人のために行われます。あなたは他人の利益のために、神の力の影響をその人に集中させています。したがって、とりなし祈りは持続性を必要とします。誰かが癌や致死的な病気で長期間な病気になったと想像してください。その人は、自らは癒しと健康について、キリストの祝福を扱うことができないかもしれません。しかし、あなたの祈りの中で、その人の代わりの役割を担いて、敵を叱責すると、その人はあなたのとりなしを通じて奇跡を受けることができます。

祈り
祝福された御父よ、苦しんでいるすべての人、とりわけ病気で、行き場を失って、あらゆる苦しみや惨めさを経験している神の子どもたちのために、御父の御霊と天使の働きを通して、助け、救い、慰めを受けるように祈ります。彼らが勝利するために必要な信仰、勇気、力が伝えるように祈ります。イエスのお名前で祈ります。アーメン。

参照聖書
ローマ8:34 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。

ガラテヤ4:19 私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。

エゼキエル33:7 人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。