2025年2月21日(金)
ただ一度のすべての人のためのいけにえ
A Once-And-For-All Sacrifice
「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、…」(へブル9:27-28)
キングジェームズ聖書では、冒頭の箇所の中にある「キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられました」という部分を、キリストは多くの人の罪を取り除くために、かつてささげられたと言っているように読む事ができます。しかし、この箇所が言っていることは、そう意味ではなく、キリストが人類の罪のために一度、永遠に捧げられたということです。他の翻訳では、正しく表現しているものもあります。例えばESV(English Standard Version)にはこうあります。「人が一度死ぬように定められ、その後に裁きが来るように、キリストもまた、多くの人の罪を負うために一度ささげられたのである。」(ヘブル9:27-28)
つまり、罪のためのいけにえは他にないということです。もう二度といけにえは必要ではないのです。イエスはすでにいけにえを捧げられ、その一度のいけにえですべてが終わったのです。ハレルヤ!それは一度きりのいけにえでした。その前の26節には、「キリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」とあります。イエスは、他の何かではなく、他の誰かでもなく、ご自身をいけにえにされたのです。ヘブル10章12節から14節では言っています。「しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、…キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。」
イエスが来られる前、ユダヤ人は毎年毎年、国民全体のためにいけにえをささげていました。数多くの子羊が殺されました。しかしイエスは、罪のない神の子羊として、つまり完全ないけにえとして来られ、ご自分のもとに来る人々を完全にしてくださったのです。バプテスマのヨハネはイエスを見るなり、「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と叫びました。
今日、罪のために自分を罰したり、ざんげしたりする必要はありません。キリストは私たちのために犠牲となってくださったのです。ヘブル10章4節から10節には、驚くべき洞察力が記されています。「雄牛とやぎの血は、罪を除くことができません。ですから、キリストは、この世界に来て、こう言われるのです。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました。…このみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。」
あなた自身の犠牲は決して十分ではありません。したがって、あなたの最善のことは、あなたに代わってイエスの犠牲を受け入れることなのです。そのただ一度だけのいけにえによりキリストはあなたを永遠に完全な者とされたのです。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです。」(使徒13:38-39)神を褒めたたえます!
祈り
愛する父よ、イエス・キリストのいけにえを感謝します。イエス・キリストの一度きりの捧げものによって、私は完全にされ、義認され、義とされていることを知り、喜びます。私は、イエス・キリストの義に満ち、イエス・キリストが私のために勝ち取ってくださった勝利のうちに生きています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
ヘブル10:12-14、ヘブル9:27-28、1 ヨハネ 4:10