He’s Your Strength And Shield!

“【主】は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。”(詩編 27章1節)

 上の詩篇で、ダビデは主に力を求めていません。主が既にあなたの人生の力であれば、主に力を求めて祈り続けるのは、霊的な知恵に欠けるものです。主があなたの命の力であるため、これ以上力を得るため切に求める必要はありません。あなたの中に主がおられるのであれば、あなたには力があります。ですから、あなたの人生に弱さなどはありません。

 これを悟っていた使徒パウロは、コリント人への手紙第二12章10節で、驚くべき主張をしました。「…なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」パウロは、自分の力は自身の中に住んでいる聖霊に寄るものだと分かっていたのです。そのため、彼が、「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。(ピリピ4:13)」と言ったのは当然です。

 真の力の源である聖霊が、あなたの中に住んでおられます。ですから、決して自分の弱さを認めてはいけません。常に主にあって力をづけられ、そして素晴らしい方法で助けられていると宣言しましょう。ローマ人への手紙8章26節には、「御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。」とあります。つまり、あなた自身が最も弱いだと思っている時、御霊の能力を使うことができるという意味です。

 又、聖霊はあなたの盾です。人達があなたに対して、あなたを敵対としてあらゆる好ましくない言葉を投げかけたとしでも、平静を保ちなさい。彼らの言葉は空しいです。あなたはその事を悟って、主に感謝してください。主は私たちの力であり、あなたのとりでだからです。聖書は、「主が命じたのでなければ、だれがこのようなことを語り、このようなことを起こしえようか。(哀歌3:37)」と述べています。あなたは何も恐れてはならいです。何も、誰も、恐れないでください。

 誰があなたを脅すと言っても、気にしないでください。イザヤ書54章17節には、「あなたを攻めるために作られる武器は、どれも役に立たなくなる。また、さばきの時、あなたを責め立てるどんな舌でも、あなたはそれを罪に定める。これが、主のしもべ達の受け継ぐ分、わたしから受ける彼らの義である。—主の御告げ。—」と言われたからです。何という保証でしょうか!この様な意識を持って生きながら、毎日勝ち続けましょう。

祈り
主は私の命の力です。ですから、私の人生には弱さはありません。キリストの豊かさで満ち足りていて、私にとって不可能なことはありません。主は私を高い所に立て下さいました。栄光と尊敬が主の臨在の中にあります。主がおられる所には力と喜びがあります。私が死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れないのは、私の盾である主が永遠に守ってくださるからです。ハレルヤ!

参考聖書
詩編 23:4  たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

詩編 27:1-3  主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。2 悪を行なう者が私の肉を食らおうと、私に襲いかかったとき、私の仇、私の敵、彼らはつまずき、倒れた。3 たとい、私に向かって陣営が張られても、私の心は恐れない。たとい、戦いが私に向かって起こっても、それにも、私は動じない。

コリント人への手紙第二 3:5-6 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格をくださいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。