A Greater And More Perfect Tabernacle
「しかしキリストは、すでに成就したすばらしい事がらの大祭司として来られ、手で造った物でない、言い替えれば、この造られた物とは違った、さらに偉大な、さらに完全な幕屋を通り、また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:11-12)
旧約聖書での、ソロモンが建てた神殿は2つの部分に分かれていました。いけにえとして使用される家畜を殺す幕屋の庭である外の部分と、幕屋本体がありました。幕屋も二つに分かれて、その最初の部分は聖所であり、司祭のみがそこに入ることができました。
それから、第二の幕屋には至聖所であり、垂れ幕で聖所とは分離された場所でした。司祭が聖所で奉仕している間に、至聖所に入ることができるのは、大祭司だけで、年に一度だけ入ることができました。至聖所に入るため大祭司は、自分のため、また民のために、ささげるものが必要でした。大祭司は獣の血を携えているときのみ、そこに入ることができました(ヘブル9:6-8)。さらに、1年が終わって、その贖いの期間が失効すると、別のいけにえが必要となりました。
毎年、大祭司によっていけにえをささげるにもかわらず、罪は決して取り除かれませんでした。神の臨在には、なおも人々は近づけませんでした。さらに大祭司がいけにえを捧げた祭壇は、聖殿にあるすべての道具を含めて、祭壇にいけにえが置かれる前に、他のいけにえで聖別されなければなりませんでした。言い換えれば、非常に聖なるものを、聖なるものとしていた幕屋は、それ自体が十分に聖なるものではありませんでした。
それから聖書は、メルキゼデクの位に等しい大祭司であるイエスが、さらに偉大で、完全な幕屋として来られて、イエスご自身を捧げたと言います。「あなたは、いけにえやささげ物を望まないで、わたしのために、からだを造ってくださいました」(ヘブル10:5)。 今日、イエスの体がさらに偉大で、完全な幕屋なので、イエスを通して、神の存在が信じるすべての人に開かれています。今、私たちは、「…イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。」(ヘブル10:19-20)という御言葉に力付け、大胆にいられるのです。
祈り
愛する御父よ、すべての罪を除くために、ただ一度、皆のために捧げられた主イエスの犠牲に感謝します! 私はこの完全な犠牲が永遠で完璧に私の罪を取り除き、永遠に御父と一つとなったのを確信します。イエスの御名でお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ヘブル9:13-15) もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、14 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。15 こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。
(ヨハネ2:18-21) そこで、ユダヤ人たちが答えて言った。「あなたがこのようなことをするからには、どんなしるしを私たちに見せてくれるのですか。」19 イエスは彼らに答えて言われた。「この神殿をこわしてみなさい。わたしは、三日でそれを建てよう。」20 そこで、ユダヤ人たちは言った。「この神殿は建てるのに四十六年かかりました。あなたはそれを、三日で建てるのですか。」21 しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。
(エペソ5:2) また、愛のうちに歩みなさい。キリストもあなたがたを愛して、私たちのために、ご自身を神へのささげ物、また供え物とし、香ばしいかおりをおささげになりました。