Holy, Faultless And Guiltless
「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、きよく傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」(エペソ5:26-27)
主イエスは、傷がなく、欠点のない、栄光に満ちた教会のために来られます。あなたは欠点がない教会というのが可能か、気になるかもしれません。もちろん可能です!イエスの贖いのわざのすべては、そのことのためのものでした。コロサイ1:21-22には、こう述べられています。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は、神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、きよく、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」
イエスが、あなたの代わりに罪の代償としてご自身の体を犠牲にしてくださったことで、あなたは今、御父の臨在の中に住むようになりました。あなたと御父との間には敵意はありません(エペソ2:13-16を読んでください)。天の御父の真の性質とお人柄を知ることは、何と慰めになることでしょう。御父は、私たちを御自分のところに連れてきてくださいました。ヤコブ1:5には、「とがめることなく」とあり、それは、神はあなたを非難したり、責めたりしないという意味です。主は、あなたを何も責めません。主は、あなたの罪をあなたに負わせようと考えてはおられません(第二コリント5:19)。
あなたは非難されるところから自由です。あなたは義とされたのです。パウロがローマ8:33-34で、詩的に言ったのも不思議ではありません。「神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。 罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、…」 そして、38節と39節で、パウロは最高に締めくくられています。「私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、 高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」
キリスト・イエスは、すでにあなたのために死なれました。主はあなたの代わりに罪に定められたのです。こういうわけて、誰もあなたを罪に定めることは決してありません(ローマ8:1)。キリストがあなたの義です(第一コリント1:30)。誰があなたを非難しようとも、あなたは神の前で聖なる者であり、傷がなく、罪のない者なのです。イエスが、あなたのすべての罪の責任を負ってくださったからです。それがまさに、神があなたの誤りを責められない理由なのです。ハレルヤ!
祈り
愛する御父よ、主の究極の犠牲を通して、私が、主の前で義とされてくださり感謝します。私は、キリスト・イエスにおいて、主の目に責められず、咎められない、神の義とされています。私を、キリストと共に永遠に君臨し支配する、この義の新しい人生へと導いてくださったことを感謝します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(1テサロニケ 3:13(AMPC), また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
(ローマ 5:8-9) しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。