2026年5月12日(火)

神の愛に対する完全な啓示

The Complete Revelation Of God’s Love

「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(1ヨハネ4:8)

多くの人々は、愛について独自の定義を持っています。なぜなら、「愛」という言葉は、イエスが来られる前から存在していたからです。人々は日常会話の中でこの言葉を使っていました。それはイエスが来られた時に生まれたものではありません。ギリシャ語においても、「アガペー(agape)」と訳される「愛」は既知の言葉であり、人々は日常会話の中で使っていたため、すでに愛についての考えを持っていたのです。

しかし、主イエス・キリストこそが、神の愛の真の定義なのです。主がこの地上を歩まれた時、主は神の愛の目に見える現れであり、表現そのものでした。聖書は、神は愛であると述べています。その愛は人間の肉体に宿り、イエスというお方を通して私たちに現されたのです。主がこの地上を歩まれた時、それは愛が歩み、語り、触れ、そして人々の命を変えていくことでした。

イエスが神殿に入って説教されたとき、それは神の愛が説教されていたのです。主が病人を癒されたとき、それは神の愛が彼らを癒していたのです。たとえ主が鞭を作り、神殿で両替商たちの机をひっくり返されたときでさえ、それは神の愛が現れていたのです。

誤解のないように申し上げます。人間による愛の定義が、神の愛を決定することはできません。イエス・キリストは、神の愛が人となって私たちのもとに来られたお方です。ヨハネ1章14節には、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。」とあります。

完全なる神であり、完全なる人であるイエスは、愛のすべてを体現しておられました。ですから、愛を知るためには、主イエスを知らなければなりません。愛を理解するためには、主を通してそれを見なければなりません。イエスこそが、人類に対する神の愛の完全かつ完璧な啓示なのです。

祈り

愛する父よ、キリスト・イエスにおいて御自身の愛を私に示してくださったことを感謝いたします。私は主の愛を自覚して歩み、知恵と真理と力をもってそれを表します。私の人生は、キリストの愛が実践として現れるものであり、私の世界へ癒しと義と変革をもたらします。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書

(ヨハネ3:16) 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

(ローマ5:8) しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

(1ヨハネ4:9-11) 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


2026年5月11日(月)

あなたのうちにある祝福

It’s About The Blessing In You

「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」(創世記39:2)

聖書は創世記37章から第50章にかけて、ヨセフの生涯、すなわち穴から宮殿へと至る道のりと、彼の人生に注がれた神の祝福について語る美しい物語を伝えています。兄弟たちに売られて奴隷となったヨセフは、後にポティファルの家で管理人となったとき、一見新たな機会を得たかのように思われました。

それでも、ヨセフは自分のアイデンティティを一度も忘れませんでした。彼は自分がヤコブの子であり、アブラハムの子孫であることを知っていました。それゆえ、彼は自分を状況の犠牲者とは見なそうとしませんでした。その思うが、彼の生き方や働き方を形作りました。たとえ些細な仕事であっても、ヨセフは際立った存在でした。彼は他の人とは違う働き方をしました。彼は自分自身を祝福された者として振る舞い、その祝福は彼の行うすべてのことに表れていました。

ヨセフの卓越した働きは無視できず、その生き様は際立っていたため、ポティファルの妻でさえ彼を誘惑しようとしました。しかしヨセフは、自分に求められる誠実さと、主人の信頼という名誉を重んじ、彼女の誘いを拒みました。ポティファルの妻から妥協するよう強い圧力をかけられたにもかかわらず、ヨセフは義を選び、その場を逃げ出しました。

その決断は、冤罪(えんざい)と投獄を招きました。彼は無実にもかかわらず有罪とされました。それでも、牢獄は彼のアイデンティティを変えることはできませんでした。ヨセフは自分が誰であるかを忘れず、彼の人生に注がれた祝福は引き続き実を結び続けました。まさにその牢獄の中で、彼は励ましの源となり、他の人々に希望を与え、知恵と恵みをもって行動し、やがて囚人たちのリーダーとして任されるようになりました。

その後、神の計画により、ファラオが夢の解釈を求めたため、ヨセフは監禁から解放されました。奴隷として売られ、犯罪者扱いされていたヨセフは、一瞬にして、エジプト全土を支配する者へと昇進したのです。彼の置かれた環境は変わりましたが、祝福は一貫して続いていました。

多くの人がまだ理解していない真実があります。重要なのはあなたの仕事ではなく、あなたの中にあるキリストの祝福なのです。あなたがキリストにあって誰であるかを理解すれば、あなたの置かれた環境はあなたを制限することはできません。あなたの中にある祝福は、あなたがどこにいようとも語られるでしょう。あなたはアブラハムの子孫であり、祝福の担い手であり、分配者なのです。その祝福が、あなたを実り豊かで、卓越し、そして繁栄した者にしてくれます。神を賛美します!

祈り

愛する父よ、私の中で働かれるキリストの祝福に感謝いたします。私は自分が誰であるかを自覚して歩み、どこへ行っても卓越した働きをします。主の祝福は私を実り豊かで繁栄させるものであり、私はこの世にとって希望と答えの源となります。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書

(創世記 41:39-41) パロはヨセフに言った。「神がこれらすべてのことをあなたに知らされたのであれば、あなたのように、さとくて知恵のある者はほかにいない。あなたは私の家を治めてくれ。私の民はみな、あなたの命令に従おう。私があなたにまさっているのは王位だけだ。」パロはなおヨセフに言った。「さあ、私はあなたにエジプト全土を支配させよう。」

(箴言 10:22) 主の祝福そのものが人を富ませ、人の苦労は何もそれに加えない。

(ガラテヤ 3:29) もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。


2026年5月10日(日)

私たちもこれらのことを語っている

“Which Things Also We Speak”

「ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。」(1コリント2:12)

聖霊があなたの人生に臨まれた理由の一つは、あなたが神の御心を知り、神があなたに惜しみなく与えてくださったものを自覚できるようにするためです。1コリント2章11節から13節は、これを驚くほど明確に説明しています。「いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜ったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。」

さて、1コリント2章12節と13節にある、実に驚くべき点に注目してください。クリスチャンが御言葉を語り、あるいは告白すること、特にそれがキリストにおける繁栄、健康、勝利、あるいは支配に関する告白することを批判する人々がいます。しかし、彼らの問題は御言葉に対する無知にあります。方向性は二つしかありません。もしあなたが繁栄と健康を宣言していないのであれば、あなたは欠乏と病気を容認していることになります。中間はありません。

3ヨハネ1章2節は、神があなたの完全な繁栄、すなわち物質的な繁栄と魂の繁栄に関心をお持ちであることを証明しています。「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」聖霊は、キリストにあるあなたの相続分やアイデンティティに関するこれらの驚くべき真理をあなたに啓示するだけでなく、あなたがその真理を語るようにと教えてくださるのです。

キリスト教は、語る人々のためのものです。もし神があなたに与えてくださったことを語らなければ、聖書に啓示されているキリスト教を実践していることにはなりません。私たちは自分の相続財産を語り、自分のアイデンティティを宣言し、自分の受け継ぐ分を公言します。私たちは、キリストにある自分の所有する物と、自分が誰であるかを大胆に宣言するのです。それが勝利の原則なのです。神が言われたことを語るということです。「…主ご自身がこう言われるのです。…そこで、私たちは確信に満ちてこう言います。」(ヘブル13:5-6)

神が語られたことを語り続けるにつれ、王国の実在があなたの人生に現れます。ですから、あなたの勝利を宣言してください。あなたの支配権を確証してください。あなたの繁栄と健康を語りなさい。大胆に御言葉を語り、あなたの人生が栄光から栄光へと移り変わるのを見守ってください。ハレルヤ。

祈り

愛する父よ、私に惜しみなく与えてくださったことを教えてくださる聖霊に感謝いたします。私の口は御言葉で満たされ、私は大胆に語ります。私は勝利と支配と繁栄のうちに歩み、私の人生は栄光から栄光へと変えられていきます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書

(1コリント2:11-13)いったい、人の心のことは、その人のうちにある霊のほかに、だれが知っているでしょう。同じように、神のみこころのことは、神の御霊のほかにはだれも知りません。ところで、私たちは、この世の霊を受けたのではなく、神の御霊を受けました。それは、恵みによって神から私たちに賜わったものを、私たちが知るためです。この賜物について話すには、人の知恵に教えられたことばを用いず、御霊に教えられたことばを用います。その御霊のことばをもって御霊のことを解くのです。

(ローマ10:10) 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

(2コリント4:13) 「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。


2026年5月9日(土)

あなたはすでに油注ぎを持っている

You Already Have The Anointing

あなたがたには聖なる方からのそそぎ油があるので、だれでも知識を持っています。」(1ヨハネ2:20)

神が他の人に与えられた恵みを通して、あなたも祝福を受けることができます。あなたは彼らの信仰に影響を受けることができ、また、彼らがあなたの信仰と力を合わせることで、何かを成し遂げることができるでしょう。しかし、あなたの人生に注がれている油注ぎを増やすことは誰にもできません。なぜなら、あなたにはすでに、あり得る限りのすべての油注ぎが与えられているからです。もしこの真理を信じれば、あなたは驚くべきことを成し遂げることができるでしょう。

聖書にはこう記されています。「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受ける」(使徒1章8節)聖霊は、彼らの中に住まわれるために、ペンテコステの日に彼らの上に臨まれました。聖霊は人々の中に入られるために臨まれたのです。聖霊は、あなたを神の幕屋として備えるためにあなたの上に臨まれ、今やあなたの中に住まわれています。それならば、聖霊がご自身の全き姿、満ち溢れる御姿であなたの中に宿っておられるのに、どうしてあなたに注がれる油注ぎが、それより劣ることがあり得ましょうか?

聖書は私たちに驚くべきことを教えています。私たちはキリストの体と肉と骨なのです。(エペソ5:30)これ以上の恵みはありません。ヨハネ1章16節にもこうあります。「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」そして、次のように宣言しています。「なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。」(1ヨハネ4:17)

つまり、神は私たちを、イエスを見るのと同じように見ておられるのです。悪魔たちは、イエスを見たのと同じように私たちを見ています。これ以上、何を望むのでしょうか。あなたには、すでに必要なものが与えられているのです。1ヨハネ2章20節で、ヨハネは御霊によって聖徒たちに次のように記しています。「あなたがたは、聖なる方から油注ぎ(unction)を受けているのです……。」 注目すべきことは、彼は「主からさらに多くの油注ぎを得ようとしてください」とは言わず、あなたはすでに油注ぎを持っていると述べている点です!

「油注ぎ(unction)」と訳されているこの同じ言葉は、27節では「油注ぎ(anointing)」と訳されています。「あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油(anointing)があなたがたのうちにとどまっています。…」神は、あなたが聖霊を受け取った以上、神のために生き、神のために働くために、何かさらに得る必要があるかのような印象を決して与えられません。

あなたはすでに、この地上で超越的に生きるために必要なすべての力、栄光、権威を受け取っています。その油注ぎはあなたの内側にあり、その油注ぎはあなたを教え、永遠にあなたの中に留まります。これがあなたの実在です。

祈り

愛する父よ、聖霊を受け取ったことにより、私に永遠に与えられた御栄え、力、権威、そして支配権に感謝いたします。私は、キリストの満ち溢れる力の中で働きながら、自分の中にいる主の偉大さを自覚して生きています。私は大胆さと支配権、そして超自然的な力を持って歩み、あらゆる場所で御栄えを現します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書

(1ヨハネ2:27(NIV)あなたがたについては、キリストから受けた油注ぎがあなたがたのうちにとどまっているので、だれにも教わる必要はありません。しかし、その油注ぎがすべてのことをあなたがたに教えてくれるものであり、また、その油注ぎが偽りのない真実のものであるように――それがあなたがたに教えてくれたとおり、キリストのうちにとどまりなさい。

(ローマ8:10-11) もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。

(2コリント1:21) 私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。


2026年5月8日(金)

信仰の正しい土台

The Right Foundation For Faith

確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。」(2コリント5:7)

聖書に従ってクリスチャンとしての生活を送りたいとお考えですか?それなら、ご自身の感情ではなく、御言葉を自ら知り、それに従い、御言葉に基づいて生きなければなりません。感情や個人的な経験は、信仰の根拠にはなりません。神は、私たちが体験に頼るようには決して造られませんでした。私たちの信仰は、神の言葉に根ざしているのです。

神の力が現れるとき、人々はしばしば「感じる」さまざまな感覚について語ります。冷たいものを感じたと言う人もいれば、熱いものを感じたと言う人もいます。震えたという人もいれば、体が硬直して動けなくなったという人もいます。これらは個人的な体験であり、人によって異なるものです。

したがって、自分の個人的な体験を教義として掲げることは、誰にとっても正しいことではありません。聖書は、神の力があなたの中で、あなたの上に、あるいはあなたを通して働いているときに、何かを感じなければならないとは決して言っていません。御言葉は神聖の実在を感覚に基づいていません。それらは信仰によって引き出されるのです。あなたはどのような感覚を抱いたとしても、御言葉に焦点を当ててください。神の恵みがあなたの必要を満たしたという結果に焦点を当ててください。素晴らしい例が、長血の病を患っていた女です。聖書には、彼女が主の衣の裾に触れた瞬間、「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」(マルコ5:29)と記されています。

彼女が感じたことについての証しは、自分が癒されたということでした。重要なのはそのような証しです。最良の報告とは、自分が癒されたことを知り、それを証しすることです。それが御言葉の報告であり、信仰のための正しい土台となります。信仰とは、神の御言葉が成就することを期待し、それに応じて行動することです。そうすれば、あなたは御言葉が保証する結果を享受することができるのです。

祈り

愛する父よ、私の人生を導き、私の信仰を確かなものにしてくださる御言葉に感謝いたします。私の確信は、主の真理に根ざしており、今日、私は御言葉の実在の中を歩んでおります。私の信仰は強く、私の霊は確信に満ちており、御言葉に従って生きるゆえに、私の人生は信仰に基づく実を結んでいます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書

(ローマ10:17) そのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

(マルコ11:23) まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

(ヘブル11:1) 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

(ヘブル10:38) わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」