2026年9月6日(日)
象徴的な儀式以上のもの
More Than A Symbolic Observance
「(主の)みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。」(1コリント11:29)
聖餐式は、単なる宗教的な儀式や象徴的な慣習をはるかに超えたものです。それは主イエスご自身が定められた神聖な定めであり、深遠な霊的な意味と力を秘めています。聖書によると、主は弟子たちと共に聖餐を執り行われる際、パンを取り、祝福し、それを裂いて彼らに与え、「これはわたしの体である」と言われました。(マタイ26:26、マルコ14:24、ルカ22:19)
主は「これはわたしの体を表すものである」とは言われず、「これは、あなたがたのために砕かれるわたしの体である」と明確に言われました。同様に、杯についても、使徒パウロは御霊によって次のように記しています。「私たちが祝福する杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」(1コリント 10:16)
聖書は、聖餐を単なる象徴として扱うことは決してないことに留意してください。むしろ、聖霊の力と働きを通して、キリストの体と血との霊的にあずかることと交わりが生じます。だからこそ、聖書は私たちが聖餐に与る際、主の体をわきまえるよう戒めているのです。「わきまえる」とは、正確に認識し、霊的に理解し、信仰をもって応答することを意味します。
聖餐を受けられる際は、その神聖な意義を深く理解した上で受け取ってください。使徒パウロは、多くの人が弱ったり病んだりし、中には死に至った者さえいたのは、主の体を正しくわきまえなかったためだと説明しています(1コリント11:30)しかし、その逆もまた真実です。すなわち信仰と啓示をもって聖餐にあずかるとき、聖餐は神聖の命、健康、力、そして霊的な活力の通路となるのです。
あなたが口にする食物が肉体と一つになるのと同様に、信仰をもって受け取る聖餐もまた、神の命の実体をあなたの存在の中に注ぎ込んでくれます。ですから、聖餐に与る際には、キリストの力があなたの中で働いていると宣言してください。あなたがキリストの命にあずかっている者である以上、病気、虚弱、弱さ、そして疾患があなたの体の中に居場所はないと断言してください。
聖餐に決して軽々しく臨んではなりません。畏敬の念と喜びをもって、またキリストの犠牲の効力に対する揺るぎない信仰をもって、聖餐に臨んでください。それを通して、あなたは主の勝利、命、健康、義という実在を再確認し、それらがあなたの中に現れていることを宣言するのです。ハレルヤ!
祈り
愛する父よ、聖餐の祝福と力に感謝いたします。パンと杯をいただくとき、私は主の御体を悟り、神のいのち、力、健康、そして霊的な活力の実在の中を歩んでまいります。キリストのいのちが私の体に現れているため、病気、弱さ、不自由、そして疾患は私の中に居場所がありません。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(1コリント10:16-17)私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。パンは一つですから、私たちは、多数であっても、一つのからだです。それは、みなの者がともに一つのパンを食べるからです。
(1コリント11:23-29)私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。したがって、もし、ふさわしくないままでパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。みからだをわきまえないで、飲み食いするならば、その飲み食いが自分をさばくことになります。
(ヨハネ6:56-57)わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。