2026年9月30日(水)
信仰により義と認められる
Justification By Faith
「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」(ローマ5:1)
新約聖書の大きな恵みのひとつは、信仰による義認です。旧約聖書の時代、人々は律法を通して義認を求めましたが、それを得ることはできませんでした。律法は罪を明らかにすることはできましたが、人を義とすることはできなかったのです。しかし、新約聖書において、私たちはイエス・キリストの信仰によって義と認められています。義と認められるとは、どういうことでしょうか。
それは、無罪判決、すなわち「罪がない」と宣言されることを意味します。キリスト・イエスにおいて、神はあなたを「無罪」と宣言してくださいます。「では、私が犯した罪や過ちはどうなったのでしょうか?」と疑問に思うかもしれません。その答えは聖書にあります。ローマ4章24節から25節には、主イエスが私たちの罪のために引き渡され、私たちの義認のために復活されたと記されています。罪を知らない方が、私たちのために罪とされました。「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」(2コリント5:21)
イエスは私たちの身代わりとなられました。イエスは、私たちに向けられていた裁きを負われました。人類に対して立てられていたすべての告発が、イエスに負わされたのです。しかし、神に感謝すべきことに、話はそこで終わりではありませんでした。聖書は、主が私たちの義認のために復活されたと述べています。イエスの復活は、義の要求が完全に満たされたという宣言でした。
代価が全額支払われたため、神は主を死からよみがえらせられました。私たちの義認は確かなものとなりました。これこそが、クリスチャンが個人的な努力や律法の行いを通して義を得ようと苦闘する必要がない理由です。義はキリスト・イエスにあって、すでに私たちに与えられているのです。今、私たちは神との平和を持っています。私たちは神と一つとなっています。
聖書が「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(ローマ8:1)と語っているのも、当然のことです。もはや隔たりもなく、罪の定めもなく、御父の御前であなたの立場について不安を抱くこともありません。あなたはキリストにおいて受け入れられています。これこそが、福音がもたらす安らぎと確信に満ちた人生です。あなたは神ご自身によって無罪と宣言されたのです。神の目から見て、あなたは一度も罪を犯したことがないのです。
ローマ人への手紙3章21~26節には、「…神の義が明らかにされた…すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、…すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、…それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」と記されています。この実在の大胆さ、自由、そして喜びのうちに歩んでください。罪悪感や非難、あるいは自分には価値がないという感覚の下で生きることを拒んでください。主イエスは、あなたの罪のために引き渡され、あなたの義とされるために復活されました。主の御名に永遠の栄光をささげます!
祈り
愛する父よ、キリストへの信仰による私が義とされたという輝かしい現実を、ありがとうございます。私は、キリスト・イエスにおいて義と宣言され、受け入れられたという実在の大胆さ、自由、そして喜びのうちに歩んでいきます。私の義とされたことと、主との正しい関係による祝福を、ありがとうございます。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ローマ 4:24-25)また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。
(ガラテヤ 2:16)しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(ローマ 8:1)こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。