2026年4月18日(土)

神聖の愛の本質

The Essence Of Divine Love

「…わたしを見た者は、父を見たのです。」(ヨハネ149

人々は代々、「愛」という言葉を使ってきましたが、その真の意味の本質を捉えたり理解したりすることはできませんでした。愛という言葉の訳語の一つであるギリシャ語の「アガペー(agape)」でさえ、キリストが来られる前から知られていました。しかし、人間の定義では、神聖の愛の本質を決して捉えることはできませんでした。

主イエスこそが、愛に意味を与えてくださいました。主を見たとき、あなたは「愛」が実践されている姿を見たのです。主は神の愛の現れそのものです。聖書にはこう記されています。「神は愛です」(1ヨハネ 4:8)愛は、イエス・キリストにおいて人間の肉に宿りこの地に来られました。ルカ4章16節から21節が伝えるように、主が会堂で説教されたとき、それは神の愛が実践されている姿でした。

イエスはイザヤ書の巻物を読み上げ、「今日、この聖書の言葉が、あなたがたの聞くとおりに成就した」と宣言されたのです。イエスは世界に救い、癒し、そして愛をもたらすというご自身の使命を明らかにされました。そして、主はその愛を行動に移されました。病人を癒し、盲人の目を開き、群衆に食べ物を与え、死者をよみがえらせました。それは明らかな神の愛でした。

マタイ14章14節には、「イエスは舟から上がると、多くの群集を見、彼らを深くあわれんで、彼らの病気をいやされた。」と記されています。主の憐れみが病人を癒やす原動力となり、愛と憐れみが主の宣教の核心であったことを示しています。

神殿から両替商たちを追い出された時でさえ(ヨハネ2:13-17を参照)、その行為は怒りではなく、義なる愛によるものでした。主の熱意は、御父の家への愛に根ざしていたのです。ルカ13章32節でヘロデを「狐」と叱責された時も、それは真理と愛を大胆に表現したものでした。イエスは義なる権威をもって、悪を叱責されていたのです。

最後に、マタイ23章37節にあるエルサレムに対するイエスの嘆きは、ご自身の民の救いに対する深い愛と切なる願いを示しています。「ああ、エルサレム、エルサレム。…わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」これらの行いと御言葉は、主の生涯が神聖な愛の完全な現れであったことを明らかにしています。

愛とは、人間の感情や感性、弱さ、あるいは寛容さによって定義されるものではありません。愛とは、私たちに啓示されたイエス・キリストの性質なのです。イエスは完全に神であり、完全に人でした。あなたが御言葉と御霊を通して主をより深く知るほど、愛に対する理解はより明確になります。またあなたが、主の性質に従って歩むとき、自分の世界に対する神の愛の現れる者となるのです。

祈り

愛する父よ、御父の尽きることのない愛の完全な現れとしてイエスを遣わしてくださったことを感謝いたします。私の中にある御子の命は、愛の命です。私は御言葉の光の中を歩み、御子の性質を表します。私を通して、多くの人々が主の愛、憐れみ、恵み、そして変革の力を体験することができます。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書

(1ヨハネ4:9) 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

(ヨハネ13:34) あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

(ヨハネ15:12-13) わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。