2026年4月5日(日)
イエスは主である
He Is Lord Jesus
「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、」(黙示録1:17)
主イエスと共に歩み、真に主に仕えるためには、主が実際にどのようなお方であるかを知らなければなりません。主を知らなければ、主を敬うことはできません。主を知らなければ、主を愛することもできません。多くの場合、主の御名を呼ぶ方法こそが、その人が主の神聖な本質と至高(しこう)の主権を真に認識しているかどうかを明らかにします。
例えば、復活と昇天の後、主を呼んだ者は誰もイエスとは呼ばず、「主イエス」と呼びました。イエスは、「主なるイエス」なのです! イエスと真に出会い、その御姿を見た者たちは、そう呼んだのです。タルソのサウロを考えてみてください。彼はダマスコへの道で神の力に打ち倒され、こう言いました。「主よ、あなたはどなたですか」
「わたしはイエスである」という答えを聞いた瞬間、パウロは真の出会いを経験したため、彼の畏敬の念は変わりました。ルカの記述を読んでみましょう。「彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いた。 彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、お答えがあった。わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:4-6)
多くの人は、主を見たと言いながら、なおも畏敬の念なく主に語りかけるのです。栄光に包まれたキリストとの真の出会いは、主への言葉や主についての語り方を変えるものです。その威厳を認め、主の主権を尊ぶのです。使徒ヨハネはパトモス島で栄光に輝く主を目撃し、その時の反応は黙示録1章17節に記されています。「それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。」
ヨハネは、何かを受け取ったからではなく、神の栄光の現れゆえに、その力の下に倒れたのです。すると、主は彼の上に手を置き、祝福の言葉を告げられました。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり…」これが栄光に包まれたキリストです。
あなたの礼拝、言葉、そして人生は、主に対する最高の栄誉、最も深い畏敬の念、そして最大限の尊厳を反映すべきです。主は「…大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現れを待ち望むようにと教えさとしたからです。キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」(テトス2:13-14)主は万物の主、天と地の主なのです。(使徒10:36、使徒17:24)
祈り
祝福された主イエスよ、イエスの主権と栄光を私の霊に明らかにしてくださり感謝します。私の礼拝、言葉、そして人生は、主の威厳、比類なき偉大さ、支配、大いなる栄光、永遠の統治に対する最高の栄誉、そして最大限の尊厳を反映します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ピリピ2:9-11) 9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
(使徒2:36) ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」
(黙示録1:17-18) それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。