霊的ないけにえをささげること
Offering Spiritual Sacrifices
「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(へブル13:15)
私たちが属している神の国は、霊的な王国です。そこで、私たちは霊的な務めを果たし、霊的ないけにえを捧げます。私たちが神にささげるいけにえは、霊的ないけにえであるため、私たちが霊的に考えることは非常に重要です。神は、罪を取り除くことのできなかった雄牛とやぎのいけにえから、霊的ないけにえへと移されました。
私たちが「霊的」と言うとき、私たちは霊的な実体、霊的な感知を扱っているのです。例えば、私たちの祈りやいけにえに対する神の解釈は霊的なものです。 預言者たちでさえも、そのように考えていたとホセア14章2節にあります。「あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。『すべての不義を赦して、良いものを受け入れてください。私たちはくちびるの果実をささげます。』」
私たちが神に向かって語る言葉は、旧約聖書で神に捧げられた子牛のような質の中で神にささげます。礼拝での私たちの言葉は、神に捧げられた雄牛のいけにえと同じ力と効果を天にもたらします。雄牛と子牛は人々によって殺され、食べられましたが、私たちの言葉は、神に直接届くのでさらに重要です。
私たちの祈りは、霊的ないけにえです。詩篇141章2節で、ダビデは「私の祈りが、御前への香として、私が手を上げることが、夕べのささげ物として立ち上りますように」と言いました。「その御名をたたえる私たちのくちびるの果実」は、霊的なささげものです。それはあなたが、神の偉大さを告白していることを意味します。神はあなたに恵み深き、あなたに良くしてくださった方であることを告白しているのです。
あなたが教会や家で膝をついて、あるいは手を上げて立って主を礼拝しているとき、天では実際に何かが起こっているのです。しかし、それだけではありません!今日の御言葉の次の節である、ヘブル13章16節には 「善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです」とあります。貧しい人をあわれみ、人のために何か親切なことをしようとすることは、神に受け入れられるささげものです。天では、それらの行いは霊的であることを意味します。
重要なのは、私たちが霊的な心を持ち、これらが実際であることを理解することです。ですから、このことがより慎重に、より誠実によく行うことです。
祈り
愛する主よ、主は恵み深く親切な方であり、代々永久に主は神です! 主の愛に感謝します。主の守りと保護に感謝します。私がこの地における主の御心、性質、慈しみを表現し、治めるように、私を自由と統治の人生に導いてくださったことに感謝します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(へブル13:15-16) ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。善を行うことと、持ち物を人に分けることとを怠ってはいけません。神はこのようないけにえを喜ばれるからです。
(黙示録5:8)彼が巻き物を受け取ったとき、四つの生き物と二十四人の長老は、おのおの、立琴と、香のいっぱいはいった金の鉢とを持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒たちの祈りである。