Quit The Struggle

「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」(ローマ5:7-8)

あるクリスチャンは、神に認めてもらおうともがき、必死に努力する人がいます。彼らはある種の祝福を受け取るために、又はある一定の生活水準に達するために、代価を払う必要があると思っていますが、そではありません。中には、断食や祈りが霊的な成長を得るために、対価を払う一つの方法だと思っている人達がいます。しかし、それは間違っています。 断食と祈りは敬謙に生きるのために行うものです。

油注ぎのために、又は、イエスがすでに死んでくださったことのために、代価を払おうとしているのであれば、あなたはイエスの支払いが十分であったと信じていないことです。 あなたが神の栄光のうちに歩み、それを表すために、これ以上犠牲は必要ありません。ですから、必死に努力するのはやめてください。

ダビデが何かをして、神にイスラエルの王にしてもらえたのでしょう?彼は何もしていません。それは、神の選択があるだけです。アブラハムは何かをして神に選ばれ、偉大にしてもらえたのでしょう?彼は全く何もしていません。ただ神がアブラハムを選び、祝福したのです。モーセはイスラエルの子らに、こう言いました。「神は、あなたがたの父を愛したので、あなたがたを祝福した。」と言いました。モーセは、「あなたがたの父が代価を支払ったから」とは言わず、むしろ、アブラハム、イサクとヤコブを愛したからだと言いました。

ヨセフが何をして、父ヤコブの愛を受け、そでつきの長服をもらえたのでしょうか?何もしていません。ただそのような彼の運命だったのです。ソロモンが、その時代で最も知恵ある人となるために代価を支払ってはいません。神がただ彼を愛したからです。ソロモンが生まれた時、ソロモンの父が彼を「主に愛された」の意味で「エディデヤ」という名づけたことは不思議ではありません。(Ⅱサムエル12:24-25)。

聖書は、キリストの苦難とそれに続く栄光について述べています(Ⅰペテロ1:11)。すでにあなたのうちに成立していることに対して、苦しみ、もがく必要はないのです。イエスは、あなたが超越した人生を送れるように代価を支払ってくれました。あなたの努力や労苦ではなく、神の力が、あなたの命と敬虔に関する全てのものを満たしていると、聖書は言っています。ですから、神の栄光のうちに生きてください。自分の力でもがくことをやめて、キリストを楽しんでください。

祈り
愛する御父よ、私を安息ある人生に導いてくださり感謝します。私は、何に対しても、苦労したり、不安になったり、又は心配することなく、有利な立場で過ごしています。イエスが全てのために代価を支払ってくれました。私は今、栄光、恵み、恩恵と繁栄の人生を生きています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参考聖書
ピリピ 3:7-8  しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。 8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、

へブル4:10  またこう言われます。「主よ。あなたは、初めに地の基を据えられました。天も、あなたの御手のわざです。 11 これらのものは滅びます。しかし、あなたはいつまでもながらえられます。すべてのものは着物のように古びます。

Ⅰペテロ1:10-11 この救いについては、あなたがたに対する恵みについて預言した預言者たちも、熱心に尋ね、細かく調べました。 11 彼らは、自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、だれを、また、どのような時をさして言われたのかを調べたのです。