Understanding The Scriptures
「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、」(ルカ24:45)
多くの人が聖書を読みますが、御言葉のメッセージを理解しません。聖書のうちには、神のことばを含んでいます。聖書は、神ご自分が言われたこと、人間が言ったこと、悪魔が言ったこと、天使が言ったこと、イエスが言われたことに対する神の証言です。つまり、聖書にあるすべては、誰が、どんな流れの中で語ったものなのかを理解しなければいけません。聖書は、人間と霊的な存在の起源と、人生と、運命そして彼らを取り巻く環境のための神の証言です。
たとえば、新約聖書の初代教会について聖書を勉強する時、初代教会の成長に気づくことが重要です。弟子たちは、初代教会の時に、すぐには、すべてのことに気づくことはできませんでした。聖書の「使徒の働き」の最初15章を勉強するとき、当時の教会は、ユダヤ人ではない人々も、キリストの中に入っていた事実をあまり信じていませんでした。初代教会の人達が深刻に論じ合いによって、ペテロが彼らに説明し、ユダヤ人以外の人がキリストを受け入れることは、全く信じ難いことでした。15章では、ヤコブも旧約聖書を根拠しながら提示する場面が出ています。(使徒15:6-29)
従って、聖書を勉強する時、聖書の御言葉を記述された時代の人々の考えや文化を理解する必要があります。たとえば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書に書かれたイエスの教えのいつくかは、新しい被造物について書いていません。すなわち、いくつかの教えはクリスチャンがより頼んで生きるべきものではありません。それらは、永遠のいのちをいただいたものに向けられたものではなく、ユダヤ人のマインドに与えたものであります。あるときイエスは弟子たちに、こう言われました。「…信仰がないのは、どうしたことです。」(マルコ4:40) ここを読んでひとりで、このように考えてはいけません。「おそらく、私にとってうまくいかないのは、信仰がないからだ。」 信仰のないクリスチャンはいないので、これは、まちがった推測です。
聖書は言います。「神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、…」(ローマ12:3) 旧約聖書の時代の人なら、信仰を持っていない場合もあったでしょう。なぜなら、彼らは新しく生まれていないから信仰がない場合もあります。彼らは、感覚によって生き、また律法の下で生き、信仰とは、感覚ではなく、霊から来るものです。しかし、キリストのうちにいるすべての人は、同一された信仰の量りを受けたのです。
霊的な理解をもって聖書を勉強しましょう。そうするとあなたは、教会とあなたと世界への神の過去と現在と未来の計画と目的のために、より深い理解が得られるでしょう。
祈り
愛する御父よ。聖書に対する理解を私にくださり、私にイエス・キリストの救いに至る知識をくださり感謝します。私には御国の奥義を理解できる能力を享受する特権があります。尊い聖霊さま、すべてのことが理解できるように教えてくださって感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
マタイ13:11 イエスは答えて言われた。「あなたがたには、天の御国の奥義を知ることが許されているが、彼らには許されていません。
ヨハネ14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。