2024年12月30日(月)
罪からの自由
Freedom From Sin
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(1ヨハネ1:9)
今日の聖句にある「言い表す」という言葉は、ギリシャ語で「ホモロゲオ(Homologeo)」から訳された言葉です。これは動詞で、宣言することを意味します。しかし、冒頭の節の文脈では、「認める」という意味になります。もし私たちが自分の罪を認めるなら、神は真実で正しい方ですから私たちの罪を赦し、すべての不義から私たちをきよめてくださるのです。
またローマ3章24-26節を読んでみましょう。そこには神の義と罪の赦しについて書かれています。「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、イエス・キリストを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。…こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」神は義なる方であり、その義によって人の罪を取り除き、彼らを義とされるのです。
それを想像できるでしょうか?罪を告白し、赦しを請う者を神は義とされるとは書かれていません。神が求めておられるのは、あなたがただ赦されることではなく、赦された後の本当の結果を求めているのです。赦しとはギリシャ語の「アフィエミ(aphiemi)」に由来し、自由を意味します。父の焦点は罪からの自由なのです。
すでにあなたは、キリスト・イエスにあって神の義とされているのです!あなたは神の義の表現なのです。
使徒の働き13章38-39節には、驚くべきことが書かれています。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べられているのはこの方(イエス)によるということを、よく知っておいてください。」とあります。そして、この方によって、信じる者はみな、モーセの律法では義とされなかったすべてのことから義とされるのである。」義とされるとは、無罪と宣告されること、無罪とされること、罪からの解放を意味します。
罪からの自由というのは、罪の束縛からの自由と言うのではなく、罪からの自由を意味します。罪の束縛からの自由とは、サタンの支配が解かれたことを意味するのです。しかし、罪からの自由とは、悪を行わずに義をもって生きる能力と可能性を意味します。それは可能なのでしょうか?
確実に可能です! イエスがされたことがまさにそれです。そうでなければ、イエスの目的は達成されなかったことです。しかし神に感謝します。イエスは神の目的を成就されました。イエスが罪とされたのは、私たちがイエスにあって神の義とされるためです。(2コリント5:21)今、罪があなたを支配することはありません。(ローマ6:14)これについては、詳しくは次回学ぼうと思います。
祈り
愛する父よ、イエス・キリストによって罪から解放されたことを感謝します。イエス・キリストの犠牲によって、私は義とされ、きよめられ、罪から解放されたことを認めます。私は義のうちに歩み、私が行うすべてのことにおいて、あなたの栄光を現します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ローマ6:12ー14)ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。
(2コリント5:21)神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(コロサイ1:13-14)神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。