2025年6月19日(木)
私達は義として、聖なる者として生まれた
We Were Born Righteous And Holy
「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」(エペソ4:24)
あまりにも長い間、教会の多くの人々が聖さと義の教義について間違った考えを持ってきました。彼らは、誰一人として聖い者はなく、聖く生きることもできないと信じているのです。しかし、聖書によれば、私たちのすべてが聖いのです。新しく生まれた私たちは、義と真の聖さに基づいて造られたのです。それが冒頭の聖句で読んだことです。あなたは聖く、義であるのです。
旧約聖書から新約聖書まで、聖書における聖さの教義は、あなたが何をするかとは何の関係もありません。むしろ、聖さはあなたが誰であるか、どこにいるかに関係あるのです。聖なる者だけが聖なる生き方をすることができるのです。あなたは聖なる者になるために聖なる行いをすることはできないのです。もしそれが可能なら、あなたには主イエスが決して必要ではなくなります。
義も同じです。正しい人生を送るためには、まず正しくならなければならないのです。だからこそ、新生において、神は義の性質を人の霊に授けられるのです。義とは性質であり、正しい生き方とはその性質の結果であるのです。犬が吠えるのは犬だからです。同じように、罪人は正しい生き方をすることができません。何故なら、その人は罪人だからです。それが彼の性質なのです。
正しい人生を送るためには、神の義とされなければならないのです。2コリント5章21節には、「神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。」とあります。それゆえ、義とは獲得するものではありません。人々が義になろうともがくのは、神の御言葉の正確な知識が欠けているからです。
ローマ5章17節によれば、義とは神の賜物であり、それは性質です。義は、正しいことを行う能力をあなたに与え、あなたのうちに生み出す神の性質、あるいは命なのです。ハレルヤ!このことを理解するまで、あなたはクリスチャンの歩みで苦労することになるでしょう。これが、私たちが「キリスト教は宗教ではない」と言う理由の一部でもあります。世界の宗教では、聖なる者になろうと「努力」し、正しい者になろうと「もがく」のです。しかし、キリスト教では、義と聖さは私たちが本来持っている性質なのです。私たちは、聖く、正しく生きるために、正しく聖く生まれてきたのです。神を褒めたたえます!
祈り
愛する父よ、義と聖さは私の生まれながらの性質です。私のうちに、正しく行い、主の完全な御心に沿って生きる能力を生み出します。私は私の義の自覚のうちに歩みます。私のうちにある主の義の権威をもって、サタン、悪霊、状況を支配し、統治します。父よ、この輝かしい人生に感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ローマ5:17)、もしひとりの人の違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりの人イエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。
(エペソ1:4)、すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
(ヘブル3:1)そういうわけですから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち。私たちの告白する信仰の使徒であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。