2023年11月11日(土)
私たちの内にある栄光
The Glory In Us
「神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。」(コロサイ1:27)
上の聖句の力強い構成を見てほしいと思います。「あなたの内にいるキリスト、栄光の望み」と書かれています。「あなたとともにおられるキリスト 」や 「天におられるキリスト」とは書かれていません。これが奥儀です。聖書全体を通して一貫している啓示です。
創世記には、そよ風の吹くごろ、アダムとエバは園を歩き回れる神である主の声を聞いていたという記述があります(創世記3:8)。神はアブラハム、イサク、ヤコブのような人々に何度も現れました。神がご自身を現されるたびに、神と出会った人々は、その場で象徴として祭壇を築きました。
しかし、そのような出会いは時折であり、彼らは神と常に交わりを持っていたわけではありませんでした。しかし、神には新しい計画があったのです。神はモーセに御自身を現され、御自身の名をヤーウィ(主)、つまり幕屋におられる主、民の中の神と告げられました。主はモーセに天幕を建てるように指示し、そこで主は彼らと会われました。主の栄光が幕屋に入り、モーセはそこで神と交わったのです。
彼らが旅をするとき、幕屋は主の臨在を象徴するものとして、彼らとともに運ばれました。その後、ダビデは神のために永久的な家を建てることを望んだが、神はその計画をダビデの息子ソロモンに与えられました。ソロモンは壮大な神殿を建設し、それが完成すると、神は神殿を栄光で満たされました。(第二歴代誌7:1-3)
しかし、神に感謝します。今日、ソロモンの神殿に現れたものよりも大きな栄光があります。モーセが神の臨在の中で山から見たものよりも、さらに大きな栄光が、私たちのうちに宿っているのです。ハレルヤ!昼は雲の柱、夜は火の柱として現れた聖霊が、今や私たちの内に宿っておられるのです。ああ、私たちはどんなに栄光に満ちた者となったことでしょうか!
祈り
愛する父よ、私の心にある、主の驚くべき臨在に感謝します。私の内におられるキリストは栄光の望みです!私はキリストにあって、あらゆる状況を支配し、統治する恵みと能力を与えられています!私を強くしてくださるキリストによって、私はすべてのことができます。私の内におられるキリストは、絶え間ない勝利と限りない成功の人生を保証してくださいます。神を褒めたたえます。イエスの御名によって祈ります。
参照聖書
(2コリント3:7-18)7 もし石に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができなかったほどだとすれば、8 まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。9 罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めには、なおさら、栄光があふれるのです。10 そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。11 もし消え去るべきものにも栄光があったのなら、永続するものには、なおさら栄光があるはずです。12 このような望みを持っているので、私たちはきわめて大胆に語ります。13 そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。14 しかし、イスラエルの人々の思いは鈍くなったのです。というのは、今日に至るまで、古い契約が朗読されるときに、同じおおいが掛けられたままで、取りのけられてはいません。なぜなら、それはキリストによって取り除かれるものだからです。15 かえって、今日まで、モーセの書が朗読されるときはいつでも、彼らの心にはおおいが掛かっているのです。16 しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。17 主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。18 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。
(コロサイ1:26-27)これは、多くの世代にわたって隠されていて、いま神の聖徒たちに現わされた奥義なのです。27 神は聖徒たちに、この奥義が異邦人の間にあってどのように栄光に富んだものであるかを、知らせたいと思われたのです。この奥義とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。