2024年9月24日(火)
神聖な礼拝
Divine Worship
「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、…」(ローマ1:9)
冒頭の聖句で、パウロは驚くべきことを述べています。肉ではなく、霊をもって神に仕えることは驚くべきことです。これこそ真の神への礼拝であり、あなたがすることすべて、つまりあなたの人生全体が礼拝の歩みなのです。だから、神の人々は至る所で霊を持って神に応答するように教えられ、訓練されるのです。何故なら、信仰とは神の言葉に対する人間の霊による応答であるからです。
新約聖書には、英語で「礼拝」と訳されている言葉がいくつかあります。そのひとつが「ラトレオ(latreuo)」で、ローマ1章9節に見られるように、神に仕えるという意味です。多くの人に馴染みのあるもう一つの単語は「プロスクネオ(proskuneo)」で、これはしばしば礼拝と訳され、礼拝行為を指すものです。
たとえば、マタイによる福音書4章で、サタンがイエスを試み、この世の王国を与えると申し出ましたのです。すると、イエスはこう答えました。「引き下がれ、サタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある。」(マタイ4:10)ここで、礼拝とは行為であり、手を挙げたり、歌ったり、頭を下げたり、ひれ伏したりするような身体的な表現です。
そしてもうひとつは、「セボマイ(sebomai)」という言葉で、表現される思考の状態のことです。これは宗教的な気質や考え方を表し、必ずしも誰かが神を深く知ったり愛したりしなくても、伝統や畏敬の念から特定の宗教的な実践を行うことを意味します。
これは聖書で、神を礼拝する者として記述されている、テアテラ市のルデヤという女を通して見ることができます。ここで礼拝は実際の神との関係ではなく、宗教的な敬虔さを示す言葉でした。イエスはこのような習慣を取り上げ、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。」(マタイ15:8)と言われました。しかし、ルデヤはパウロのメッセージに耳を傾け、改心したのです。(使徒16:14)
心が神から離れていると、礼拝はむなしいものとなります。そのような礼拝は、真の霊的なつながりの代わりに人の教えを用いることになるからです。しかし、真の礼拝とは、あなたの霊をもって神に仕えることなのです。神との親密な、心からの交わりで、真の献身をもってあなたの霊と神の霊を一致させることなのです。ハレルヤ!
祈り
愛する父よ、真の礼拝の本質を明らかにしてくださってありがとうございます。私は毎日、主の親密な交わりに生きるために、私の霊をもって主に仕えます。私の人生、資源、思考、言葉、行動は、神の栄光と目的を反映し、礼拝をささげ続けるものです。私は、主の御霊によって、私の心を主の御言葉と一致させ、私がささげる礼拝が香ばしい香りとして主に受け入れられ、主を喜ばれるものとなるために、力を与えられています。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(ヨハネ 4:22-24 )救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。」
(ピリピ 3:3)神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。
( マルコ 7:6-8)イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」