(How To Give Him Glory)
“イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。”(ヨハネ2:11)
多くの人々はただ “主よ、私は主に栄光を捧げます。”と言うことが神様に栄光を捧げる方法だと信じます。もし、本当にそうするのが神様に栄光を捧げることならば、その栄光はどこにありますか? その栄光を現わされるように何かが必ずなくてはなりません。これはまるであなたが礼拝に参席して“主よ、私は主に献金を捧げます。”と言った後に、献金袋に何も入れないことと同じです。また、あなたがお店で商品を選んだ後、店員に“私はあなたにお金を払います。”と言うだけで、店員はあなたを送りますか。 絶対にそうではありません! 店員はあなたにお金を要求することでしょう。またはあなたが買った商品の値段を支払ったという領収書を持って立証しなくてはならないでしょう。
同じことで、神様に栄光を捧げる方法も言葉ですること以上のもの、すなわち神様があなたに命じられたことをすることと、その結果をお見せすることです。神様のことばに従いイエス様の御名の中で、あなたに成されたことを公表することです。例として、イエス様がなされたことを見てください。イエス様が水をぶどう酒に変えられたとき、聖書は言います。“イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。”(ヨハネ2:11) 主は奇蹟を行うことにより栄光を現されました。
聖書は、イエス様が中風をわずらっている人に起きて歩みなさいと命じられたとき、そのことが実際に起きてその奇蹟を見た人々が神様に栄光をあがめたと言っています。(ルカ5:26) 同じようにイエス様がナインという町で、やもめとなった母親の一人息子を生き返らせたときに関しても聖書は言っています。“人々は恐れを抱き、「大預言者が私たちのうちに現れた」とか、「神がその民を顧みてくださった」などと言って、神をあがめた。”(ルカ7:16) あなたが神様のことばの上で行うならばそのことは必ず結果を生み出します。そうすれば、あなたは神様を賛美するようになり、他の人々もそのことを見て神様を賛美するようになり、主が栄光を受けられるようになることでしょう。
ですから、主は私たちの祈りに答えられるのを喜ばれます。主は子どもたちが夢と望みを実現させて主を賛美する姿を見て楽しまれます。しかし、この真理を知らない人々は、祈りの答えを受けるのを期待せずに、ただ‘宗教的(religiously)’に祈るだけです。彼らが祈りの答えの中に、神様の栄光が入れられているという事実を知っていたなら、どれほど良かったでしょうか! あなたが祈るとき、答えられることを期待する大胆な信仰を持ってください。なぜなら、主はあなたの祈りに答えられることにより栄光を受けられるからです。それはヨハネ福音書15:8にあるイエス様のことばを思い起こさせます。“あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。”あなたが生産的に実を結び、義の中で効果的に歩んで行くのが父の喜びです。
祈り
愛する父よ、父の栄光のため、私の人生に感謝を捧げ、私は今日、父のいつくしみと卓越さと完全さと美しさを現します。神様は私に実が溢れ、生産性が優れ卓越した人生を与えられ、私は全てのところで繁栄し進歩していきます。イエス様の御名によってお祈りします。アーメン。
参考聖句 : コロサイ1:27、第Ⅱコリント4:6-7