2024年1月18日(木)
神は私たちをご自分と和解させた
He Has Reconciled Us To Himself

「すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。」(2コリント5:19)

イエスは世をご自分と和解させるために来られたのであって、彼らの罪を彼ら自身に負わせるためではありません。それは、コロサイ1章21-22節に書かれていることを思い起こさせます。「あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行いの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。」(NKJV)

キリスト・イエスは、十字架上の死を通して、神と人との間の平和を成し、確立されました。人間は、アダムの不従順によって神の命から分離されていましたが、イエスは、死によって御自分の肉体をもって、私たちを御父と和解させてくださって、私たちを御父の御前に聖く、傷もなく、非難されるところのない者として立たせてくださったのです。

さて、イエスとはどのようなお方で、なぜ人間のためにこのようなことを成し遂げられたのでしょうか?イエスは単なる善人だったからでしょうか?いいえ、違います。そうであったら、イエスは私たちのために死ぬ資格はなかったはずです。聖書には「すべての人は罪を犯し、神の栄光を受けられなかった」と書かれているからです。普通の人間の血は、私たちの贖うことはできません。しかし、イエスの血は神聖のものであり、イエスは肉体に宿る神でした。イエスには罪はありませんでした。

聖書はこう言っています。「ですから、兄弟たち。あなたがたに罪の赦しが宣べ伝えられているのはこの方によるということを、よく知っておいてください。モーセの律法によっては解放されることのできなかったすべての点について、信じる者はみな、この方によって、解放されるのです」(使徒13:38-39)。聖書は「義とされるでしょう」とは言っていません。これは約束ではないのです。すべて信じる者は義とされているのです。

イエス・キリストの復活によって、あなたは義の新しい命を持って再創造され、罪の意識も非難もなく、神の御前で生きる資格を得たのです。これが福音です!

あなたが御父の御前で聖く、罪のない、義と認められるのは、あなたが何をしたからでも、何をしなかったからでもありません。それはイエスが行われたことの結果であり、イエスの存在が示すものです。今、あなたがたはキリスト・イエスにあって、豊かな恵みと義の賜物を受けているのです。ハレルヤ!

祈り
愛する父よ、私が信仰によって義と認められてくださった、イエス・キリストの復活に感謝します。今、私は父の御前で聖く、傷もなく、非難されるところのない者として、この驚くべき祝福と、すばらしい愛と恵みを感謝します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(ローマ5:10)もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。

(エペソ2:13)しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。14 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、15 ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、16 また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

(コロサイ1:20)その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子のために和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。