He Doesn’t Take Away By Death

「 最後の敵である死も滅ぼされます。」(1コリント15:26)

ほとんどの宗教界では、葬儀が行われるときに、次のように語るのが一般的です。「与える方も主であり、取られる方も主です。主の御名を賛美します。」 しかし、主は死に連れていかれません。主は命の源であり、創造主なのです。死は主から来たのではありません。

聖書は、死が敵であることを知らせており、最後の敵である死も滅ぼされると述べています。しかし、聖書が私たちに示したように、死はすでに敗北しました。

神は決して誰も死に渡されません。神が、この世から連れて行かれた唯一の人々に対しても、死を経験せずに生きている状態で連れていかれました。聖書によると、エノクは神と共に歩み、突然、神の霊によって地上から連れ去られました(創世記5:24)。エリヤも生きている状態で連れていかれました。(列王記下2:11を読んでください)。

イエスはどうでしょう?イエスもまた生きた状態でいかれました!そして、イエスを信じている人々もまた生きている状態で連れていかれるでしょう。ハレルヤ! 1テサロニケ4:16-17には、こう述べています。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」 これが、神の「連れいかれる」方法なのです。死ではありません、それは「移される」と呼ばれています。

さらに、神が連れいかれた人々は、あらかじめ彼らが移されることを知っていました。聖書によれば、エノクは、移される前に、エノクが神を喜ばせたという証がありました。エリヤは神が自分をいかれることを知っていたので、これについてエリシャとすでに話し合いました(列王記下2:9-11)。主イエスは弟子たちと話している間に、天にあげられました(使徒1:9)。イエスは彼らに、そのように去るということをあらかじめ語っておられました。

残された私たちにとっても、霊の中で同じく地上から離れることが非常に近づくと確信をもたらし、それについての多くの話があるでしょう。「携挙」が遠くないことを霊の中で知り、より積極的に福音を伝え、人々がイエス・キリストを信じるように強権するようでしょう。私たちがそうしている間に、突然、ラッパの音が鳴り、私たち全員がこの世から連れ出されるでしょう。神に栄光がありますように!

祈り
尊い主よ、死を滅ぼされ、福音を通して命と不滅をもたらしてくださったことに感謝します。キリストにあって永遠の命を与えられ、主の栄光の臨在の中で永遠に生きるようにしてくださり感謝します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。

参照聖書
(2テモテ1:8‐10) ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であることを恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともにしてください。9 神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、10 それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

(ホセア13:14) わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。

(1コリント15:51-54) 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。