He’s Our Mercy Seat
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」(ローマ3:24-25)
アダムの罪により、人は神から切り離された存在になりました。ローマ3:23は言います。 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができない」 悲しいことに、多くの人は、この御言葉の否定的な部分で、次のステップに進むことなく止まってしまいます。今日の本文は、信仰を築くのに非常に役立つ御言葉です。すべての人はアダムが罪を犯したので、神の栄光に至らなかったが、その問題は、イエス・キリストの中で、イエス・キリストによって解決されたのです。
私たちは、イエス・キリストによる贖いの恵みにより、値なしで義と認められた者となり、宣言されました。今日の本文の「なだめ(propitation)」と翻訳されたギリシア語では、「ヒラステリオン」という言葉で、これは、「贖いの御座」(Mercy Seat)という意味です。旧約聖書では、「贖いの蓋」は、神の契約の箱を覆って(cover)いるふたでした。その場所で神は、祭司たちと会い、神の臨在がその場所にありました。そこには、贖いのいけにえの血が、神の臨在の中で注ぎかけた所、すなわち、贖いの場所であったのです。(レビ記16:23)
新約聖書では、神は、イエスを和解のいけにえ、又は「贖いの御座」として現されます。第一ヨハネの手紙 4章10節は言います。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」 イエス・キリストは、契約の箱を覆っている蓋なのです。イエスは私たちのために、神の贖いの場所です。したがって、旧約聖書で購いの蓋が贖いのための場所であったように、今日の主イエスは、まさに世の罪のために和解のいけにえであり、贖いとなられたのです。
神は、そのご自身の公義にあって神の公平性により、まるで罪が全くなかったかのように、私たちの罪を完全に取り除いてくださいました。神は、イエス・キリストの中で、この御業をなさいました!これは、イエス・キリストの中にあるすべての人に有効します。キリストはあなたの贖いの御座です。イエス・キリストが私たちの罪のために砕かれ、私たちの苦労は、イエスの中で解決されたので、もう、私たちはもはや神の栄光が乏しくありません。主は、主の死と葬りと栄光ある復活によって、私たちを神へと永遠で、義と認めて生きるようにしました。イエスの御名を永遠に賛美します!
祈り
愛する父よ、私に主の愛を豊かに注いでくださって、私は神の御子、私をあなたの独り子イエスの命ほどに価値のあると示してくださってありがとうございます。イエスの血潮は、十字架上で罪の贖いのために流されました。今、私は、あなたの義の中を歩みます。私は、あなたの愛につき動かされて、他の人が罪から義へと回復するように、サタンから神の力へと立ち返りますように生きていきます。イエスの御名によって祈ります。アーメン
参照聖書
1ヨハネ4:8-10 愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヘブル4:14-16 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。