2024年3月4日(月)
神の義の優越性
The Supremacy Of His Righteousness

「もしひとりの違反により、ひとりによって死が支配するようになったとすれば、なおさらのこと、恵みと義の賜物とを豊かに受けている人々は、ひとりのイエス・キリストにより、いのちにあって支配するのです。」(ローマ5:17)

私は、パウロがピリピ3章9節で、イエス・キリストを信じる信仰による義の優越性について述べた言葉が好きです。「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」(ピリピ 3:8-9)

あなたが自分の人生において、イエスを主として告白したとき、その場でイエスの義があなたに与えられたのです。キリストの義は完璧です。それが、あなたの持つ義です。完璧なので、それを改善することはできないのです。今日、あなたが何をしたからといって、神の前であなたがより正しくなったり、より減ったりすることではありません。

あなたを見るとき、神はキリストの義を見ておられるのです。パウロが、ガラテヤ2章20節でこう言ったのはそのためです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」あなたが今、神の御子を信じる信仰によって生きているように、あなたはもはや「自分の義」によって生きているのではありません。あなたは「イエス・キリストの義」によって生きているのです。

主イエスは、神の前に義であり、乙女からお生まれになったので、罪なく生まれた唯一のお方であり、私たちの身代わりとなる資格のあるお方でした。

ローマ4章25節によれば、「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」続いて、ローマ5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。「義と認められる」とは、あなたが全く罪を犯していないかのように、義とされることです。何故なら、あなたへのいかなる訴えも見出せないからです。ハレルヤ!

今日、もしあなたが義になろうと、もがき苦しんでいるのなら、それはどこにも行きつくことのできない旅の中にいるようなものです。私たちは自ら義を得ることができないのです。だから、神は私たちにご自身の義を与えてくださったのです。イエスが正しいように、あなたも正しいのです。あなたの罪の性質に代わって、イエスの義を与え、新生において永遠の命を与えてくださったからです。ハレルヤ!

告白
正しくあること、正しい行いをすること、義の実とわざを生み出す能力は、私の霊に備わっています。私はイエス・キリストの義によって生きています。ですから、イエスが義であるように、私も義なのです。ハレルヤ!

参照聖書
(ピリピ3:7-9)しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

(2コリント5:21)神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

(エペソ2:8-9)あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。