2024年9月30日(月)
神の力と権威によって
By His Power And Enablement

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。…」(ヨハネ16:23-24)

主イエスは、イエスの御名を通して祈るのではなく、御名によって(in His Name)祈るようにと教えられました。主の御名を通して祈ることは、主を媒体と用いることです。イエスの御名によって祈るとは、主が私たちに与えてくださった代理権を行使することです。(ヨハネ16:23-24)ある人は、「では、聖書のヘブル13章15節にある、イエス・キリストを通して神に賛美のいけにえをささげなさいというのは、どういう意味なのか?」と尋ねるかもしれません。

それはまったく別のテーマであり、イエスを媒介とすることでもありません。聖書は「ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。」(ヘブル13:15 NIV)と書かれています。まず、聖書に対する私たちの理解は、意味論にとどまらないことが必要です。イエス・キリストを 「通して 」神に賛美をささげる場合、一つの選択肢は、「ああ、主イエスよ、私の代わりに、父なる神に賛美をささげてください」となるかもしれません。もうひとつは、「ああ父よ、イエス・キリストを通してあなたを賛美します。」というものです。これらの言い方は感覚的には成立しているように見えるかもしれませんが、霊的にはどちらも馬鹿げているものです。

例えば、ヘブル9章14節では、イエスが聖霊を通してどのように神にご自身をささげたかを教えています。つまり、イエスは聖霊の力によって、あるいは権威によってご自身を捧げられたのです。イエスは聖霊の力によってご自分をささげられたのです。同じように、私たちがキリスト・イエスを通して御父に何をするにしても、それはキリストを媒介にするものではないのです。キリストの力と権威によって、私たちが機能することなのです。

たとえば、パウロが「私は、私を強くしてくださる方(キリスト)によって、どんなことでもできるのです。」と言うのは、キリストの力と権威によってすべてのことが成し遂げられるという意味です。それが私たちの証しなのです。私たちの資格は神からのよるものです。(2コリント3:5)私たちが、キリストの神聖な能力を通して、神聖な能力によって機能することを意味しています。罪人だけが媒体を必要とし、彼らはイエスの媒体を必要とします。(ヨハネ14:6)しかし、あなたがひとたびキリストのうちに入ったなら、もはや媒介は必要ないのです。あなたはキリストの体である教会の一員なのです。キリストは私たちの内におられ、私たちはキリストの内にいます。私たちはキリストと切り離せない一体となったのです。主は私たちに、イエスの御名を与え、イエスの御名によって生き、祈り、賛美をささげるようにしてくださったのです。

祈り
愛する父よ、イエスの御名によって祈る特権を感謝します。私は、イエスの御名によって生き、すべてのことを行うために、父が私に与えてくださった力と権威を認めます。私は、キリストによってすべてのことを成し遂げる力を与えられていることを理解し、この神聖な権威と一致するように意識的に行動します。私の人生は、絶えず父の御心を反映し、父に栄光をもたらします。イエスの御名によって祈ります。アーメン。

参照聖書
(2コリント3:5)何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。

(コロサイ3:17)あなたがたのすることは、ことばによる行いによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

(ヨハネ14:13-14)またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。

(使徒1:8)しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」