2025年6月23日(月)
神からの特別な義
A Special Righteousness From God
「しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」(ローマ3:21-22)
ヘブル9章11節から15節は、私たちの主イエス・キリストについて驚くべきことを語っています。13節から14節にかけて、旧約聖書で罪の贖いのために殺された動物の血とイエス・キリストの血を矛盾なく区別しています。そこにはこうあります。「また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。もし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離させ、生ける神に仕える者とすることでしょう。」
そして、15節にこう続いています。「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反を贖うための死が実現したので、召された者たちが永遠の資産の約束を受けることができるためなのです。」言い換えれば、旧約聖書の下で犯したすべての過ちのために、イエスの血は彼らの清めのためでもあったということです。彼らのために雄牛や雄やぎが毎年殺されたとしても、その血は彼らの罪を覆い隠すことだけで、取り除くことはできなかったのです。しかし、イエスの血はすべての罪を洗い流しました。ハレルヤ!
パウロがローマ3章21節から22節で、神からの義が啓示されたと言うのも頷(うなず)けます。この新しい特別な義は、キリストにおいて与えられているものです。アブラハムでさえ、義が与えられたにもかかわらず、この特別な義を持っていませんでした。聖書は言います。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた。」(ローマ4:3)
私たちがキリスト・イエスにあって与えられた義は、それ以上のものであるのです。ローマ5章1節には、「ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。」とあります。義とされるとはどういうことでしょうか?無罪と宣言されることです。これは、罪が赦されるとか、罪が拭い去られるという以上の意味を持っているのです。むしろ、私たちが罪を犯さなかったことを意味するのです。イエスが私たちのために成し遂げてくださったことのゆえに、私たちは罪に問われることはないのです。
聖書は、神がこのようにされた(義とされた)のは正しいことだと言っています。「それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」(ローマ3:26) 神からの特別な義は、イエス・キリストを信じる信仰によるものであり、イエス・キリストの死、埋葬、復活の結果です。そしてローマ3章22節によれば、その義はすべての人のためであり、イエス・キリストの完成された御業を信じるすべての人の上に与えられるのです。ハレルヤ!
祈り
愛する父よ、イエス・キリストの信仰による義を私に与えてくださったことを感謝します。私が義と認められるのは、私の行いによるのではなく、主の恵みによるのだという輝かしい真理を喜びます。私はこの義の実在の中を歩み、罪責から解放され、キリストにある私の神性を完全に自覚します。イエスの御名によって祈ります。アーメン。
参照聖書
(2コリント5:21)、神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
(ガラテヤ2:16)、しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。
(テトス3:4-7)しかし、私たちの救い主なる神のいつくしみと人への愛とが現われたとき、神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。神は、この聖霊を、私たちの救い主なるイエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。それは、私たちがキリストの恵みによって義と認められ、永遠のいのちの望みによって、相続人となるためです。