A New Way To Pray

「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねません。」(ヨハネ16:23)

新約聖書の祈りは、旧約聖書の祈りとは異なります。旧約聖書での人々は、神に求めて、神から受け取りました。神は彼らに祝福を約束した上で、彼らは求めなければなりませんでした。神は必要を満たすことを約束されました。したがって、彼らは、神の約束の前提に基づいて祈りました。

神はアドナイ・イルエの主であり、彼らの癒し主、勝利の旗の主、彼らの義である主でした。この偉大な栄光の神は約束を成し遂げたので、彼らは神の約束に基づいて従わせたのです。

イエスが来られたとき、まだ古い契約の下で住んでいたので、イエスの教えも古い契約に基づいたものでした。祈りについて教える時、イエスは、モーセの律法に従っている人々に信仰を教えていましたが、しかしそれはあなたが住んでいる新約における今の時代の戒めではありません。ですから、新約聖書における人として、あなたは古い契約の下にいる人のように祈るのであれば、あなたが期待する祈りの結果も異なるでしょう。祈りは変わったのです。

旧約聖書で、人々は、神の約束の成就を期待して祈っていましたが、新約聖書では、神のすべての約束はキリストにおいて成就されました。 2コリント1:20は述べています、「神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。」 今日、あなたは古い契約の人々のように、神に何かを得るために求める必要はありません。すべてのものがあなたのものであり、あなたはただ受け取ることです(1コリント3:21-23)。単純にあなたの相続とキリストにおける祝福された人生の現実の中をただただ歩きましょう。

2ペテロ1:3は、「というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。」と述べています。神は私たちに命だけではなく、人生の必要とするものすべてをすでに私たちに与えられたのであれば、義人として生きるために、まだ私たちが何を祈り求めるべきでしょうか?

ですから、新約聖書における祈りは、神に物事を求める手段ではなく、実際、祈りの最も高い目的は、むしろ主との交わりの通路なのです。

告白
私は神の相続人であり、キリストとの共同相続人です。世界は私のものです。私は主を愛しているので、すべてのものが私の益のために共に働きます。そして私は神の目的に従って召されました。私は今もそして永遠に、キリストと共に統治し支配します。アーメン。

参照聖書
(1コリント3:21-23) ですから、だれも人間を誇ってはいけません。すべては、あなたがたのものです。22 パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、また世界であれ、いのちであれ、死であれ、また現在のものであれ、未来のものであれ、すべてあなたがたのものです。23 そして、あなたがたはキリストのものであり、キリストは神のものです。

(2ペテロ1:3-4) というのは、私たちをご自身の栄光と徳によってお召しになった方を私たちが知ったことによって、主イエスの、神としての御力は、いのちと敬虔に関するすべてのことを私たちに与えるからです。4 その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。

(マタイ6:25-32) だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。・・・