2022年8月4日(木)
礼拝の実践的な理解
The Practical Understanding Of Worship
「私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく」(ローマ1:9)
新約聖書では「礼拝」という言葉がほとんどクリスチャンに対して使われていないことに驚かれるかもしれません。もちろん、福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)には、この言葉が使われていますが、福音書では、イエスが扱ったのはユダヤ人であって、クリスチャンではありませんでした。使徒の働きで、「礼拝」という言葉は4回ほど使われていますが、そのどれもが教会に当てはまらないのです。
そして、あなたはこの言葉が、第一コリント人への手紙で一回、ヘブル人への手紙では二回しか使われていないことが分かります。しかし、黙示録に入ると、礼拝という言葉は22回も使われているのです! あなたは「こんなに重要だと言われていることが、どうして書簡の中にないのだろう」と思うかもしれません。
なぜなら、主は書簡の中で、私たちに礼拝の実践的な理解を与えておられ、礼拝が何であるかを正確に教えておられるからです。ヨハネ4章24節で、主は「神は霊であり、神を礼拝する者は、霊と真理とによって神を礼拝(ギリシャ語:プロスクネオ)しなければならない」と言われたのをあなたは覚えていますか。ですから、使徒パウロは、今日の御言葉を通して私たちに書簡の中で「礼拝」という言葉の代わりに、ヨハネ4章24節で、イエスの言葉を十分に確証する独特の言葉で表現しています。それは「私の霊をもって仕えている」ということです。
新約聖書における礼拝は、旧約聖書における礼拝と異なり、霊をもって神に仕えることは、礼拝が含まれるのです。旧約聖書の礼拝は、ほとんどが外的なものでしたが、新約聖書の礼拝は、外的な面もありますが、霊的なものなのです。
これがまさに私たちが礼拝をささげたという事実そのものが重要ではなく、ささげた礼拝を神が受け入れられたかどうかが重要なのです。神の言葉を通して、あなたの霊が整えられ、聖霊との交わりを通して、あなたの霊を礼拝者になるのです。それが礼拝をささげる時、父がご覧になるものです。
祈り
愛する父よ、主への愛を表現する特権を与えてくださりありがとうございます。私は主の偉大さ、優しさ、愛、憐れみ、恵みをほめたたえます! 主は国々の統治者、王の王、主の主です。私は今日、私の唇の果実で賛美のいけにえを主に捧げます。主がこの終わりの時において、教会を通して成してくださったすべてのことに感謝し、さらにこれからの大きな御業に感謝します。イエスの御名によってお祈りします。アーメン。
参照聖書
(ピリピ3:3)神の御霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇り、人間的なものを頼みにしない私たちのほうこそ、割礼の者なのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
(ヨハネ4:23-24)しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
(へブル13:15)ですから、私たちはキリストを通して、賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえるくちびるの果実を、神に絶えずささげようではありませんか。